3龍安寺の真実
 日本庭園を語る際には龍安寺を抜きで語れない。苔寺、天龍寺、金閣寺、銀閣寺、桂離宮、修学院離宮など、多くの庭を語っても日本庭園の半分を語っただけである。なぜならば、龍安寺は日本庭園の終着点であり、且つ出発点であるからだ。ではなぜ龍安寺に関する記述が少ないのだろうか。それは抽象庭園なので抽象論の美学を身につけた人々が、論議に参加していないからではないだろうか。
 また議論をしにくくしているもう一つの理由は、寺が焼失したため資料が少ないからだ。とは言ってもこの問題を少しでも議論しやすくするために、現在わかっていることを整理しておく必要があると考える。

3・1
龍安寺の現状写真

龍安寺全景:左側の石組みは塀に寄りすぎ、違和感がある

左側の石組み:東端の5石の石組みと壁際の2石を合わせて7石

壁際の小石は方向性がある

壁際の富士山型の石を斜め裏側から見る

 土塀側の石組みは横三尊の石組みと焼け爛れたような2石であるが、特に右側の石は鋭角な稜線が目立つ。方丈側の3石の石組みは鞍のような形の石の前後に小石がある。この石群は廊下との距離が近すぎて違和感がある。

3・2文献上のデータ―

寛政11年(1799)に刊行された秋里籬島の『都林泉名所図会』118頁には細川勝元が書院から毎朝男山八幡宮を遥拝するために庭に木を植えなかったことが伝承されていたことが解る。ところが、石庭が作られてから約250年経過した寛政11年頃には「古松高く老いて昔の風景麁(そ)となる」と書かれている。つまり昔の風景はまばらにしか見えないと書かれているのである。
 また、126頁には当山に八景あり、是みな方丈よりの遠景を以て風色とす。(東山仏閣、八幡源廟、伏見城跡、淀川長流、東寺宝塔、花園暮鐘、雲山?松、隣院紅葉)」とあり、方丈から八景が見えたことを具体的な景色が書かれている。
 以上のことから、龍安寺は「借景あっての抽象庭園」であることが解る。

@秋里籬島著『都林泉名所図会』下巻 講談社学術文庫 1412

118頁
 むかし細川勝元ここに別業をかまえ住せらるゝ時、書院より毎朝男山八幡宮を遥拝せんが為に庭中に樹を植えず。奇岩ばかりにて風光を催す。これを相阿弥の作りしなり。名づけて虎の子渡しといふ。洛北の名庭の第一なり。後年塀の外の古松高く老いて昔の風景麁(そ)となる。その上近年方丈回禄(火事で焼けること)しぬればむかしを情を慕われ侍る。

126頁 
 龍安寺 の林泉は封境に名池あり、鏡容池と号す。冬日鴛鴦多く集まりて洛北の眺望世に名高し。池中に三つの島あり、中の島を伏虎といふ。また水別石というあり、霖雨の時この石上へ水越ぬれば西の方の樋を上げて水を落とすなり。三笑橋というは東の方にあり。当山に八景あり、是みな方丈よりの遠景を以て風色とす。(東山仏閣、八幡源廟、伏見城跡、淀川長流、東寺宝塔、花園暮鐘、雲山?松、隣院紅葉)いわゆる方丈の庭は相阿弥の作にして、洛北の名庭の第一とす。庭中に樹木一株もなく、海面の体相にして、中に奇岩十種ありて島嶼になぞれへ、真の風流にして他に比類なし。これ世に虎の子渡しといふ。そもそもこの地は文明年中(146987)細川右京大夫勝本の別荘なり。この人書院に坐(いながら)にして遥かに八幡の神廟を毎事拝せんがために、庭中に樹木を植えさせずとなん。初めはこの地後徳大寺左大臣実能公述別業なり。同じく公有公の代細川勝元譲られしなり。

A大山平四郎著『龍安寺石庭 七つの謎を解く』淡交社・『日本庭園史新論』平凡社より抜粋

龍安寺は借景あっての抽象庭園であることが、大山平四郎著『龍安寺石庭 七つの謎を解く』淡交社(そのイメージが具体的に2245頁に下記のようなスケッチが記載されている)と『日本庭園史新論』805814頁に詳しく書かれている。
A・1推定外観図
上記秋里籬島著の『都林泉名所図会』に【当山に八景あり、是みな方丈よりの遠景を以て風色とす。(東山仏閣、八幡源廟、伏見城跡、淀川長流、東寺宝塔、花園暮鐘、雲山?松、隣院紅葉)】のようにはっきりと書かれているのだから、数のようなスケッチが描くことが出来ると思う。

方丈から見た石庭の東側風景
歩廊には壁が無く東庭と土塀越しに東山連峰が見えた。左にある石組群は東山と対照的に厳格に造形した。

方丈から見た石庭の東側風景
南西側の景色は仁和寺の五重の塔が見えたであろう、と推察している。


A・2推定復元図(大山平四郎著『龍安寺石庭 七つの謎を解く』淡交社
55頁より抜粋)
 石庭の奥行きは歩廊の東側にある東庭と同じ、玄関は土塀の位置に、歩廊に壁が無い、方丈は現在より一回り小さい、方丈の中心から総ての石組みが見渡せる、遠近法を駆使した石組み。


A・3現状平面図(大山平四郎著『龍安寺石庭 七つの謎を解く』淡交社
49頁より抜粋)
 方丈が焼失後大きな方丈が移設されたため、石庭の北側が1.5m迫り出した。玄関は方丈と共に移設されたため約5mも石庭に入り込んだため、壁が作られ東側の見通しが悪くなり、さらに石庭の東側は最大1m狭くなった。石庭東側が削られたため、西側も1m狭くした。


A・4消失後の移設された玄関と袖により石庭東側が縮小された証拠

 移設された玄関は土塀の位置より約5m方丈側に入り込んでいる。そのた石庭の東側に壁が作られ、方丈よりの東側の見通しが出来なくなった。また玄関が消失前より大きなため石庭が50cm狭くなり、また玄関に袖があるために、土塀側はさらに50cm狭くなった。


A・5石庭西側が約1m狭くした証拠(土塀の雨落ち後は現在の雨落ち溝より1m西にある)


A・6玄関正面は土塀より方丈側に5m入り込んでいる(玄関は消失後に方丈、歩廊と一体で移設された)

A・7消失前の玄関の位置は土塀の位置と同一線上にあった
『都名所図会』の下図は消失の19年前の1780年に刊行)
この図の玄関の位置は左に寄りすぎているが、歩廊に壁が無いため、東山などが遠望されたと思われる。


A・8木版摺り『洛北龍安寺』
上記図会と同一人物の原在厚の絵図は、玄関の位置が東に寄って現状の
ように、石庭と東庭のバランスが散れている。さらに石庭の石組みも描かれている。