イギリスの三角貿易(奴隷貿易) | |
1、奴隷貿易の歴史 ポルトガル @1498年バスコ・ダ・ガマはポルトガル王の支援のもと、喜望峰回りでインドのカリカットに到着。香辛料をイタリア、イスラムを経由せずに直接入手。以後繁栄の中心は地中海から大西洋海岸国家へ。 A当初は需要が高まってきた砂糖の栽培を、西アフリカ沿岸諸島の原住民にさせていた。その後ポルトガルはブラジルを入手し、森林を焼き払い砂糖畑のプランテーションを始めた。このとき西アフリカから奴隷狩りをして運んできた。これによりヨーロッパ(スペイン)〜アフリカ〜新大陸(ブラジル)の広域貿易が始まる。1570年からの約300年間で360万人が奴隷として運ばれた。 スペイン @1942年コロンブス(ジェノバ人であるがスペインのイザベラの支援を取り付けた)はカリブ海に到達。このとき7名のインディオをスペインへ連れて帰った。帰国後の報告を受けて、スペインはコロンブスに17隻の船と1500名の乗組員を与えた。このとき彼はトウモロコシや綿花の貢納と金鉱採掘の強制賦役を課し、500名のインディオを奴隷としてスペインに連行した。彼らの原住民に対する支配がいかに過酷であるかは、この第2回目の航海の1493年からの3年間で約300万人いた住民の2/3が生命を奪われた、ことからも分かる。彼はその後第3、4回目の航海をしたが、金鉱が発見されずに奴隷貿易を始めたが本国で告発されたりで、失意のうちに死んだ。 Aスペインはポトシ銀山を初めとして相当量の銀をヨーロッパにもたらし、世界的な価格革命を起こした。しかしスペイン繁栄の陰では、インディオは過酷な労働と征服者が持ち込んだ天然痘により大半の人間が死亡した。そこで考え付いたのが西アフリカでの奴隷狩りである。これによりスペイン〜アフリカ〜西インド諸島の三角貿易が成り立った。 Bスペインのコルテスは1519年550人の兵士と14問の大砲、16頭の馬で侵入、1521年アスティか帝国滅亡。(今まで見たことも無い火器や馬に恐れをなしたため)。更にスペインのピサロはインカ帝国を1533年に滅ぼした。このときはわずか16丁の火縄銃と186人の兵による。このとき皇帝をだまし莫大な金銀財宝を略奪した。 Bスペインは奴隷を購入するために黒人王国(ダホメー王国、ベニン王国)に部族間戦争に勝ち、奴隷狩りをし易くするように小銃を与えた。その他にラム酒、子安貝(現地の貨幣)、安物の綿布など。 Cスペインはオランダへの過酷な徴税と新教と弾圧により独立運動が起こり、更に1588年には無敵艦隊がイギリスに敗れた。その後、海上の覇権はオランダに移ったが、最終的にはイギリスになる。 イギリス @イギリスは16世紀から始まるポルトガル、スペインの大陸間三角貿易を見ているだけであった。スペインからオランダの独立を援助し、スペインをマルマダ海峡で倒した後は、オランダが当面の敵になり、その後、フランスとの戦いが世界中の植民地で行われた。そのほとんどで勝利したイギリスは産業革命を成し遂げ、更に産業革命による製品の力により世界帝国に発展する。 Aイギリスは17〜18世紀は中国の茶・陶磁器・絹の代金を銀で払う完全なる片貿易であった。しかし18〜19世紀にはイギリス→インド→中国の三角貿易を成立させた。すなわち綿大国のインドに綿製品を売りつけて(産業革命の恩恵)、インドの手工業産業を破壊した。一方中国貿易を黒字にするために、インドでアヘンを作らせ、それを清王朝に輸出し、中国貿易の帳尻を合わた。更には中国の銀を吸い取り、中国を世界各国の草刈場とした。将に一将功なって万骨枯るである。イギリスはこのほかインドシナ半島、アフリカ、中東など世界中の全ての地域から富を収奪し、地域の産業を成立させなかった。しかし現在、政治的には過去の植民地政策の咎を受けることなく、華々しい活躍をしている。アングロ=サクソン&ノルマン人(バイキング)はスケールが大きい。それに比べると我が国は遅ればせながら僅かなおこぼれを頂戴しただけなのに、敗戦後50年経ってもお詫び外交だ、まことに情けないではないか。ちなみにGDPからみる国力(2000年)ではアメリカ26.6%、日本14.2%、EU15カ国27.4%(但しドイツ、英国、フランスの三国の合計がほぼ日本並み)、中国は3.7%で日本の1/4、韓国にいたっては1.5%で日本の1/9以下。また中国は人口が日本の約10倍であるから一人当たりの収入は約1/40。 |
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2、主な輸出入品の推移 @奴隷によって生産される生産物と国(宗主国と植民地)の推移 銀(スペイン〜南米)→砂糖(ポルトガル〜ブラジル)→綿花、珈琲(イギリス〜アメリカ) Aヨーロッパよりの主な輸出品の推移 毛織物(スペイン〜中南米)→火器(オランダ、イギリス〜アフリカ)→綿織物、(イギリス〜インド) Bヨーロッパの輸入品の推移 香辛料(ポルトガル〜アジア)→砂糖、タバコ(オランダ、イギリス〜中南米)→茶、銀(イギリス〜中国) C三角貿易の商品と(生産地と消費地)の推移 奴隷(アフリカから中南米、ブラジル)→アヘン(インドから中国) |
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3、ヨーロッパの嗜好品の変化 当初は香辛料を求めてイタリア、イスラムが中継貿易を行っていた、その後喜望峰回りの航路が開発されると、ポルトガル、スペイン、オランダ、フランス、イギリスが直接にアジアに進出しプランテーションを経営するようになり、香辛料の価格が相当に下落した。一方中国の紅茶、中南米のコーヒーの味を知ったヨーロッパ人はそれに夢中になり、それに伴い砂糖の需要が急速に高まった。 |
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4、ヨーロッパよりの輸出品の変化 当初はスペインの毛織物を中南米に輸出していた(植民地のスペイン人が本国並みの生活をするため)。その後、オランダの毛織物が安くて品質が良いためスペイン製品を駆逐した。一方綿製品はインド製品がヨロッパに大量に輸入されたが、危機感を抱いたイギリスはインドより綿花を輸入し、産業革命の成果として安価な綿布、綿糸をインドへ輸出し、インドの地場産業を破壊した。 |
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5、備考 @奴隷とされた数:1550年からの約300年間で2000万から5000万人といわれている。輸送中に劣悪な環境なので1/4から1/3は死亡したといわれている。 A奴隷狩りをした場所は現在黄金海岸、象牙海岸、奴隷海岸といわれている。直接に奴隷狩りをしたのは白人ではないが、白人は黒人王国間の紛争に付け込んで、武器を引渡し、紛争に勝った方から奴隷を受け取る仕組みである。 B現在アメリカにおいて黒人問題が噴出しているが、上記の歴史を振り返るならば、ナチスのユダヤ人虐殺以上の罪を犯しているのではないか。産業革命は欧米列強が成し遂げたが実にアフリカ、アメリカ、アジアの屍の上に成り立っている、とも言えないだろうか。この辺りの資料は少なく、素人の私が見ただけでも、資料をかき集め現象をなぞっているだけだ。今回私なりに括ってみた。 |
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6、大陸間の植民地貿易モデル図 @スペインの場合(奴隷貿易の利益でアジアより香辛料を求めた) Aイギリスの場合(当初は実線の三角貿易が主体であったが、次第に点線の三角貿易に移る |