シトー派創始者の聖ベルナルドゥスに関する資料  

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クリュニー派に属するランスのサン・ティエリー修道院長のギレルムス宛ての手紙 
    馬杉宗夫『大聖堂のコスモロジー』 講談社現代新書より
a、クリュニーは修道僧達の世俗化、不節制に対して
次から次へと料理がやってくる。もし肉を絶つとすれば、大きな魚を食べている。クリュニー派の芸術は、四皿または五皿もたいらげた後に、なお次の料理のために食欲を示しているかのようなものである。
b、豪華な教会堂建築に対して
それらは小さなことである。もっとも重要なことは次のことであるが、それはあまりに一般になっているので、些細なことのように思われている。私は、教会堂の広大な高さや、並外れた長さや、その不必要な幅、さらには豪華な装飾や、凝った絵画などについては、語りたくない。それらは、祈る人々の視線を奪い、信仰のための妨げになるのだ。
c、巨大な建築、豪華な装飾に対して
貧しく生きるあなた達にとって、聖堂の中で黄金は何になるのであろうか。
d、豪華なローソクに対して
虚栄の中の虚栄、むなしさより、むしろ滑稽である。聖堂の壁面は輝いて、石のモニュメンで飾られているのに、教会の息子達は、裸のままで着るものがないのである。
e、床のモザイクに対して
なぜこれらの聖なる像の上を、人々は尊敬なしに歩くのであろうか。しばしば天子の顔の上つばを吐いているものもいる。そして、それらを踏み荒らしながら聖人の像を消滅させている。ほどなく挨のなかに消えてしまう運命にあるこれらの美しい色彩や、これらの表現がなぜ良いのであろうか。貧しき人々、修道院、精神の中に生きる人々にとって、これらのものはなんの役に立つのであろうか。
f、回廊を飾る彫刻について
回廊で読書にふける修道僧の目にとって、これらの変容された美や美しき奇形は何になるのであろうか。これらの汚らわしき猿、獰猛なライオン、化物じみたケンタウロス、戦う戦士たち、斑点のある虎、トランペットを吹く狩人たちは、一体何になるのであろうか。こちらでは一つの頭に多くの体がつき、あちらでは一つの体に多くの頭がついている。このような多くの変化に富んだものがあるので、本を読むより、石に表現されたものを読むようになるし、神の法を瞑想するよりも、むしろ一日中これらのものを賞賛することに時を過ごすようになる。
Aシトー派の考え方

1124年写本の中に金地の使用禁止
1134年あらゆる図像的表現禁止
1150年次のように制定
われわれは、聖堂の中で、または修道院の他の場所で、彫刻や絵画を制作することを禁止する。なぜなら、人々がそれらを見ている間、彼らは、しばしばすぐれた瞑想の有用性や、宗教的戒律を忘れがちになるからである。聖堂の建築に関しては、石の鐘塔の禁止、さらに鐘の数も二つに制限、且つ重量も一人の修道僧が持ち運べる大きさに制限した。
B建築の比例関係
 前川道朗の『聖なる空間をめぐる』68Pによると、次のように単に質素、素朴といった概念では計り知れない美しさを認めている。このフォントネ修道院に限らず、柚木に示すプロバンスの三姉妹といわれている、シトー派修道院を見ていきたい。この聖堂には、柱頭のごとく簡素な葉形の他には刳り形はほとんど見当たらない。ただ祈りの場としての空間だけがある。しかし単なる実用的な建物では決してない。聖ベルナールによって建てられ、あるいは彼から委嘱された緒聖堂は、ピューリタン的なものでもなければ粗末なものでもなく、「彼の時代のもっとも偉大な建築家に値する」ものであった(フォン・ジムソン)。それが装飾物を「削除されたロマネスク」をはるかに越えたものであって、再現芸術の消滅が建物の構造と比例の無比の純粋さと完成への道を開いたと考えるフォン・ジムソンは、1対1,1対2、2対3、3対4といった「まことの尺度にのっ取った比例がこのフォントネの聖堂を決定している」として、聖アウグスティヌスの「完全比」によって最も純粋に構成された建築をそこに見せている。