何故ヨーロッパに現代科学が生まれたか
ここでは科学技術についての基本的な考え方についての各種情報を整理した。
@ではヨーロッパは神→人間→自然関係が明確になっているために自然を客観視できるようになった、とロ シアの歴史学者ベルジャエフが言っているそうだ。本当にそのようであるかもしれないが、このように重要 なことをなぜ他の学者が考察しないのかが非常に不思議である。大いに論じてほしいものだ。ベルジャエフの引用は磯崎新氏の本でも引用されているが本当にベルジャエフが言っただけで現代科学の発生の原因をキリスト教の精神に求めていいのか多少の疑問が残る。彼は次のように述べた
「古代世界の終末とキリスト教世界の開始は、自然の内的生命が人間からある異質的な深みへと離れ去っていったことと関係する。いまや自然と人間の間には、ある一つの深遠が口を開いたのである。キリスト教はいわば自然を殺した。これがキリスト教によってもたらされた人間精神の自由化という偉大な作業の別の面に他ならない。 この自然からの乖離、この自然の内的生命に通ずる鍵の喪失は、キリスト教時代をそれ以前の時代と区別する最大の特徴である。その結果は一見極めて逆説的である。全異教徒にとり、全古代世界にとって、自然は生ける有機体であった。キリスト教時代の生み出したものは、自然の機械化である。自然はキリスト教時代において最初は恐怖と圧迫であり、危険の感情を呼び起こした。自然認識の危険、自然からの逃避、自然との精神的闘争がこれに結びついた。後になって、近世史の黎明期に至り、自然に対して技術が適用され、自然の機械化が始まった。これは自然を生きる有機体と見ず、死せるメカニズムと見る見解と関連している。この機械化は、人間のキリスト教による聖霊崇拝からの開放の第二次的、あるいは第三次的結果である。人間を自由に連れ戻し、これを訓練するために、人間を自然から区別し、これを高めるために、キリスト教は自然を機械化したのである。以下に逆説的に見えようとも、キリスト教のみが実証的な自然科学と実証的な技術を可能ならしめたと、私は信ずる。人間が自然的聖霊と直接的に交渉していたかぎりは、人間がその生を神話的自然観の上にきずいていたかぎりは、人間は自然科学と技術によるその認識によって自然の上に超出することが出来なかった。自然的聖霊を恐れているならば、われわれは鉄道を敷き、電信電話架設することが出来ない。人間が自然に対してこれをメカニズムと見て工作するためには自然が生命を持ち、精励が充満しているという感覚、自然と自己が直接な連繋を持っているという感覚が、人間意識の中で弱まらなければならない。機械的世界観はキリスト教に反抗して起きたものであるが、しかもそれは元素的自然と自然的聖霊から人間を解放するキリスト教的作用の精神的結果であった。自然の懐に住み、しかも自然を科学的に認識することは不可能であった。自然を技術的に支配することはできなかった。その結果は人間のその後の運命に光を投ぜずにはすまない。キリスト教は人間を精神的に世界構造の中心に据えることによって、人間を自然的奴隷から解放した。人間中心的な存在感は古代の人間には縁遠いものであった。古代の人間は自然の不可分的な一部分と感じた。キリスト教のみが、人間中心的勧請を創出した。これが人間をして自然を超出ものであり、人間はキリスト教からこの賜物を受け取ったのである。近代のキリスト教反対者のすべてが、このキリスト教的源泉に対するかれらの依存を、十分な程度にまで認識していない。」
ベルジャエフ 「歴史の意味」 白水社 141p4行目から142p最後まで
Aは今特に問題になっているイスラム原理主義についての一つの回答がある。外的要因と外的要因があり、内的要因としてアル・カザーリの出現のみで現実に動いていた合理主義の世界が軌道修正されるのだろうか、との一抹の不安を覚えます。なるほどと思うし、大先生お二人が感心しておられるのですが。
@ギリシャの自然観よりのキリスト教的自然観の離脱
西欧精神の探求 革新の十二世紀132P 堀米庸三・木村尚三郎・伊藤俊太郎 NHK出版
『ピュシス』と呼ばれた自然観は、『生まれる』という言葉から来るわけで、それ自身生まれ、成長し、衰え、死んでいく、そういう生物学的な自然ですね。アリストテレスの言葉でいえば「それ自身のうちに運動を持っている」、そういう生成発展する全てを包み込む生きた自然が根本にあり、その中に神も人間も自然も皆含まれてい田と思うのです。………………そういう古代ギリシャの自然観のパンピュシズム的な構造が、中世キリスト教的世界の中に入って大きく変わってきたと思うのです。…………神も人間も自然ももはや一つのピュシスの中にあるので話に、それが分解して、神はそういう世界を超えた超越者であり、その下に人間があり、更にその下に自然がある。神のために人間があり、人間のために自然があるという階層的な構造が始めてでてくる。
伊藤はロシア生まれのベルジャエフの言葉を次のように引用している。「なぜならキリスト教の時代の帰結が自然の機械論化だったからである。……………しかしいかに逆説的に見えようとも、キリスト教のみが実証科学と技術を可能にしたのである。」
デカルトは機械論とキリスト教という新しい総合を試みたと言ってもよいと思うのです。これが近代西欧科学を生み出した自然観であり、実際ガリレオもボイルもニュートンもこの路線上にあるのです。またフランシスベーコンの「自然の支配」と言う概念、実験によって外から自然を色々操作し
てそれを支配し利用していくと言う思想も同じで、人間にとって自然は絶対の他者として直接的にその中に入っていって、直感的に把握すると言う道が閉ざされたのです…………そして自然は人間より一段下のものであり、神から支配権をゆだねられているから、利用支配していく、という考え方が成り立ったのだろうと思います。ですから、近代の科学的自然観の二つの柱である「機械論的自然像」も「自然支配の理念」も、中世キリスト教の自然観と深いところで結びついているのではないかと思うのです。
A何故アラビアに近代科学が発生しなかったのか
西欧精神の探求 革新の十二世紀 145P 堀米庸三・木村尚三郎・伊藤俊太郎 NHK出版
外的要因
東西の中継ぎ貿易をイスラムが独占的に行っていたので中継ぎ貿易の富、そこに蓄積されたバクダードやカイロの富、その富があのようにたくさんの学者を養って自由な研究をさせる余力を持っていたんだろうと思うのです。それが西欧のレコンキスタが盛んになるにつれてだんだん弱められていきますが、しかし13、14世紀にはまだイスラムの科学者で優秀な人が出ているんですけれども、15世紀以降になると全く後を断ってしまう、ということになるのです。
この転換期にアラビアが伝統的に持っていた東西の中継ぎ貿易に代わって新しくアフリカを就航するヨーロッパ人の航路が開拓され、この大航海時代にイスラムの独占を破ってヨーロッパ人が新しい富と知識を蓄積していく。そういう商業的なイニシアチブの交代があって、イスラムの富が凋落するわけで、イスラム思想のアクティビティーというものも経済的な優位を失うことを契機として不振に陥るということになったのだろうと思うのです。
内在的原因
アル・ガザーリーの出現でイスラム正統神学が復活した。………それでギリシャに科学や哲学を取り入れて発展してきたイスラムの合理主義思想、またはそれに伴うイスラム科学の開花がそこでしぼんでしまい、再び神学が中心になっていった。………ギリシャ思想を取り入れた9世紀から12世紀までのイスラム合理主義文化の反映はイスラム正統神学の立場から見れば、もともと異端的なものだったわけですね。
Bヨーロッパでの科学技術発生の起源
12世紀のアラビア文化の受容とギリシャ文化の復活の拠点
科学史の面では、この12世紀に西欧はアラビアの学問を積極的に需要・消化いたしまして、それまでは世界文明史の一つの辺境にとどまっていた西欧文化圏が、やがて世界の中心に乗り出してゆく―そういう知的離陸を可能にするような基盤をそこにつくり上げたのでした。
@、 トレドを中心とする南スペインでの知的回復運動
1085年にトレドがキリスト教勢力になるとアラビア文化吸収の前進基地になりイギリス、フ ランドルドイツ、イタリアなどから進取の気性に飛んだ知識愛好家が集まりアラビアの学術を研 究、翻訳をした。例えばバースのアでラードがユークリッド「原論」、クレモナのゲラルドはアポ ロニオスの「円錐曲線論」やプトレマイオスの「アルマゲスト」などギリシャ・アラビアの重要 な書物71種類も翻訳した。
A、 シチリアを中心とする南イタリアでの文化の交流、伝達
シチリアはギリシャの植民地として出発して(アルキメデスの原理)、東ローマ帝国、ビザンツの 領地、アラビアの領土、それからこの時代はノルマンに征服された地である(バイキングがフラン スのノルマンディーに国を作り、そこからシチリアまで征服した)。ノルマン王朝は非常に寛大な 文化政策を取りギリシャ語・ラテン語・アラビヤ語が公用語であった。ここではプラトンの「メノ ン」「パイドン」、アリストテレス全集、プトレマイオスの「光学」、アルキメデス全集などがギ リシャ語から直接ラテン語に訳された。
B、 ベネチア、ピサを中心とする北イタリアでのギリシャ文化の復活
この地はアラビアとの関係で翻訳が始まったのではなく、ベネチアなどのビザンツとの関係で文 献を入手していた。
有名なのはグローステストによる「方法論革命」である、即ち実験的な事実と数学的な演繹、デー タ―と説明の論理的な関係を反省して、ここに自然学は数学的であるとともに実験的であるとの 方法論が確立された。この方法論は東洋には無かったことで、ガリレオなどの方法論の萌芽であ る。師のグローステストの弟子がロジャー・ベーコンで数学的実験科学の最初の提唱者と言われ ている。 数学的演繹と実験的検証とを結合した科学方法論を作り出した。今日の「仮説演繹 法」に相当する
14世紀になると翻訳(アリストテレス)から脱却してガリレオ、コペルニクス、ニュートンの先 駆的な業績が出てきた。即ち「マートン法則」、ダンブルトンによる「落下の法則」である。こ れはガリレオの落下の法則と同じであるが、斜面を転がす実験の測定がなされていなかっただけだ。またビュリダン「インペトゥス理論」で「慣性の原理」を確立していた。
Cニーダム曲線 科学入門 岩波新書 佐々木力 89Pより
原典はジョセフ・ニーダムの「東と西の学者と工匠」 河出書房新社
中国の官僚組織はその初期の段階では科学の発展を大いに援助していた。後期になって始めて、それは科学が更に発展するのを強引に押さえ込み、特にヨーロッパに起こったような飛躍的な進歩を阻んだのである。融通の利かない牢固たる官僚制が科学や技術の発展を抑圧した。
そういった封建制の違いは商業を鼓舞する牧畜航海文明と対照的な灌漑・農業文明の相違である。
Dなぜ中国で時計が発明されなかったのか(インターネットより)
このように占星術は国家存亡に関わる重大な事業であったので、「渾天儀および天球儀」ような天文時計が作られましたが、逆に国家的に重要な事業であるがゆえに、占星術の秘密は厳守され、皇帝が暦を統括し、時を司るという社会ができました。従って、時計の技術も世間に広まることはありませんでした。
ヨーロッパでは最初の機械時計は修道院の僧侶が定期的に祈祷をするために作られたのですが、そのうちこの時計は教会の尖塔につけられ、町の鐘楼につけられるようになりました。教会は信者が定期的に集まり礼拝することを期待していましたし、繁栄した都市では市庁舎に取り付けられた立派な時計がその都市の誇りを示す象徴となりました。
E中国中世の技術の優秀性について 『鉄と人間』96P
火器 :1044二出版された『武経総要』に三種類の火薬の配合が記されている
印刷術 :製紙技術は漢の時代。活字印刷は1041年の『夢渓筆談』に記されている
羅針盤 :1100年『萍州可談』に中国船に羅針盤があることが記されている
機械時計:8C
高炉 :1078年森林破壊に対応するためにコークスが採用されたことが『石炭行』に記されている。(ヨーロッパでは16C)
ニーダムは上記技術はマルコポーロの時代にまとめて中国からヨーロッパに技術移転した、と記している問題点としてはこれだけの技術がありながら、中国はなぜヨーロッパにならなかったのか。例えば鉄鋼技術による鉄は製塩業用の大釜にしか生産用具としては利用されなかった。(武器、鍬、犂、鉄銭、仏塔のみ)
F大航海時代 インターネット『特許ニュース』1976.FEB.27 富田徹男術の跛行的発達 3/日本と中国 1/科挙と幕藩体制
技術の跛行的発達 ヨーロッバが地理的発見時代を迎えた15世紀は中国においてもやはり大航海時代であった。元朝を倒した明朝では、その余勢を駆って、満州、東蒙、チベット、雲南、ビルマ、安南へとその版図を拡げた一方、永楽帝は日本との間に勘合貿易を定め(1404)、更に宦官鄭和に命じて遠征艦隊を南海に進めた(1405)。同遠征隊は66隻以上の大船に3万人以上をのせて行われ、7回にわたり、ペルシャ湾からアフリカ東海岸にまで到達した。この明朝が弱体化した重要な一因として豊臣秀吉の朝鮮出兵に対する大規模な軍事動員がある。この出兵により明朝は完全に疲弊し、その為鉱税その他の悪税が制定されたり、宮廷内の派閥闘争が起るなどし、朝鮮の役以前から勢力を拡張してきた後金に亡された。この後金が清朝政権である。