ルター「九十五カ条の提題」
ルター『九十五カ条の提題』
抄訳=山内貞男
1517年10月31日、マルティン・ルターが発表した『九十五カ条の提題』のうち、主要な42の条文を紹介する。なおこの前文にある「ルター師」とは、討論をよびかけたルター自身のこと。贖宥状(しょくゆうじょう:免償状)販売の不当性を議論の結節点にしつつ、全体として当時のローマ教会のあり方に疑義をぶつけたこの提題は、のちのルターの述懐によれば、「あたかも天使ご自身が飛脚となったかのように、14日間のうちにはやくも全キリスト教界をめぐった」という。(ラテン語原典といくつかのドイツ語訳、日本語訳を参照のうえ翻訳)
真理を明らかにしたいという愛と熱意から、ウィッテンベルクにおいて、当地の教養学と神学の修士でありまたその正教授であるマルティン・ルター師の司会のもと、下記の事柄が討論されることを求める。それゆえ、出席して口頭でわれわれと議論することのできない者には、不在者として文書でそうするようにお願いする次第である。われわれの主イエス・キリストの御名(みな)において。アーメン。
1.われわれの主であり師であるイエス・キリストは、「悔い改めよ」などと言われたことによって、信徒の全生涯が悔い改めであることを求められたのである。
2.この言葉は、秘跡としての悔い改め〔悔悛〕についてのもの―すなわち司祭の職務によって執り行われる告解と贖罪(しょくざい)についてのもの―と理解することはできない。
3.しかしながら、その言葉はたんなる内的な悔い改めを意味するのではなく、むしろ内的な悔い改めも、外的に肉をさまざまに殺す業(わざ)をともなわなければ、何の意味もない。
4.それゆえに、自分自身に対する憎悪―すなわち真の内的な悔い改め―が続くかぎり、つまり天国へ入るにいたるまで、罪の罰も続くのである。
5.教皇は、自らの判断または教会法の規定にしたがって課したもの以外、どのような罰も赦(ゆる)したいと思うことはなく、また赦すことはできない。
6.教皇は、赦しが神によることを宣言しそして認証する場合を、あるいはすくなくとも教皇自身に保留された事項を赦す場合を除いては、どのような罪も赦すことができない。このことを軽視すれば、罪はそのままそっくり残るであろう。
7.そもそも神は、ご自身の代理者である司祭に謙虚に服従しないような者の罪を赦されることは決してない。
8.教会法上の悔い改めの規定はもっぱら生きている者にだけ課せられているのであって、それによれば、死に臨んでいる者には何ひとつ課せられてはならないのである。
9.したがって聖霊は、教皇が教令中においていつも死と緊急事の個条を除外するという仕方で、教皇をとおしてわれわれに恩恵を施して下さる。
10.死に臨んでいる者に対して教会法上の悔い改めを煉獄にまで保留する司祭は、無知なそして悪いことをしているのである。
13.死に臨んでいる者は、死によってすべてのことから解放され、したがって教会法の条項に対しても死んでいるため、当然その条項〔の適用〕を免除されている。
20.それゆえ教皇は、「すべての罰の完全な赦し」ということで、単純にすべての罰そのものではなく、ただ教皇自身が課した罰のことだけを考えているのである。
21.それゆえに、教皇の免償によって人間はあらゆる罰から解放されて救われると言う免償説教師はまちがっている。
22.それどころか免償説教師は、煉獄にいる魂がこの世で教会法の規定にしたがって受けなければならなかったであろう罰を、ただのひとつも赦すことはない。
27.金銭が献金箱の中へ投げ入れられてちゃりんと鳴るやいなや、魂は(煉獄から)飛び出すと言う人たちは、人間〔の教え〕を説教している。
28.献金箱の中へ投げ入れられてちゃりんと鳴る金銭で、利益と強欲が大きくなり得ることは確かである。ところが、教会の代願の祈り〔が成就するかどうか〕はただ神一人のご意志による。
35.金銭で魂を〔煉獄から〕解放しようとしたりあるいは告解証を得ようとしたりする人には痛悔が必要ではない、と教える者は、非キリスト教的なことを説教している。
36.真に痛悔したキリスト教徒はだれでも、免償状〔免償証〕がなくともその人自身にふさわしい、罰と罪の完全な赦しを得ている。
37.真のキリスト教徒はだれでも、生きている者であれ死んでいる者であれ、免償状がなくとも彼自身への神からの賜物として、キリストと教会のすべての財宝に与(あず)かっている。
42.金銭を払って免償を得るのが何らかの点で慈悲の行為に譬(たと)えられ得るというのは、教皇の見解ではないことを、キリスト教徒に教えなければならない。
45.貧窮者を見てもこれを無視しながら、免償のためには金銭を払う人は、教皇の免償状ではなくて、神の不興を買うことを、キリスト教徒に教えなければならない。
46.不要なものを有り余るほどもっていない限り、自分の家庭にとって必要なものを確保しておき、決して免償のためには浪費しないという義務があることを、キリスト教徒に教えなければならない。
47.金銭を払って免償を得るのは任意であって、命じられているものではないことを、キリスト教徒に教えなければならない。
53.免償を説教しなければならないために、神の言葉〔の説教〕はその他の〔免償状を売らない〕教会ではすっかり黙っているべきであると命じる者は、キリストと教皇の敵である。
54.同じ説教中で、免償に神の言葉と同じだけの時間を費やしたり、あるいは免償の方に神の言葉によりも長い時間を費やせば、それによって神の言葉が不当な仕打ちにあう。
55.もし―これは最低のことであるが―免償をひとつの鐘やひとつの行列やまた儀式で祝うのならば、―これは最高のことであるが―福音は百の鐘や、百の行列、百の儀式で賛美されなければならないということ、これこそが教皇の見解であって当然である。
69.司教や司祭は、使徒的免償を委任された者に、大いなる敬意を払って教区への立ち入りを許可する義務がある。
70.しかし司教や司祭にはそれ以上に、免償を委任された者が教皇の委託に代わって自分自身の夢を説教することのないよう、全身を目にして注意し、全身を耳にして気をつける義務がある。
75.もしある人が、あり得ないことではあるが、神の母を暴力で犯したとしても、その人の罪を赦すことができるほど教皇の免償が強大であると思うこと、これは狂気である。
76.われわれはそれに対し、罪過については教皇の免償は小罪中のもっとも小さいものでも取り去ることはできない、と言う。
79.教皇の紋章をつけて目立つように立てた〔免償の〕十字架がキリストの十字架に等しいと言うことは、神を冒涜(ぼうとく)するものである。
80.これほど好ましくない説教を民衆に向かってすることができるのを放置する司教、司祭そして神学者には、その釈明をしてもらいたい。
81.この勝手気ままな免償説教のおかげで、平信徒の咎(とが)め立てするような、それどころか確かに鋭い質問に対して、なおかつ教皇への尊敬の念を守ることは、学識ある人にさえ容易ではない。
82.たとえば、「教皇は、大聖堂建設用のもっとも不浄な金銭のために、つまりもっとも取るに足りない理由から、無数の魂を救うのであれば、どうして至聖なる愛と魂の最高の必要とのために、要するにあらゆる根拠の中でもっとも正当な理由から、〔魂を救い出して〕煉獄を空にしないのか」と。
87.同じく、「完全な痛悔によって十分な赦しと〔み恵みの〕与かりとへの権利を得ている者に、教皇は一体何を赦しあるいは何を分かち与えるのか」と。
89.「教皇は、免償によって金銭よりもむしろ魂の救いを求めるのならば、かつて認可された免償状と免償が現在も同等に有効であるのに、どうしてそれを廃止したのか。」
90.平信徒のこのようなきわめて由々しい異議をただ権力によって抑圧するだけで、それを弁明によって退けないでおくことは、教会と教皇を敵の嘲笑に委(ゆだ)ね、キリスト教徒を不幸にする。
91.それゆえに、免償が教皇の精神と意図にしたがって説教されるならば、この問題すべてはたやすく解決されるであろう、それどころかそもそも〔問題が生じ〕ないであろう。
92.それゆえ、キリストの民に「平安、平安」と唱えてはいるものの、平安がない、そのような預言者には、皆立ち去ってもらいたい。
93.キリストの民に「十字架、十字架」と唱えてはいるものの、十字架がない、そのような預言者には、皆然(しか)るべく振る舞ってもらいたい〔責任を取ってもらいたい〕。
94.キリスト教徒に勧めなければならないのは、彼らの頭(かしら)であるキリストに罰、死そして地獄を通ってでも懸命に従おうとすること、
95.したがってまた、安全な平安によってよりも、むしろ多くの苦しみを経てこそ神の国に入るのだと信じることである。
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