中国科学技術の先進性 「東と西の学者と工匠」 ジョセフ・ニーダム 河出書房新社
中国科学技術に関しての古典中の古典です。現在どのように評価されているか解りませんが、私なりに理解したところを要約いたしました。但し図書館で借りるにも苦労しました
@ 機械時計は中国が始めて発明された
備考)
印刷 グーテンベルク1436年 中国では6世紀より
紙 漢時代の蔡倫105年に発明 751年タラス川の戦いでイスラムに伝播
地震計:132年数学者の張衡
A15世紀の航海
中国の鄭和は7回に及びボルネオから東アフリカのザンジバル海岸巡航
規模は1500トンクラスの大編隊(ヴァスコダ・ガマは300トン)
遠征個所
・ 1405から1411までの3回:チャンパ・ジャワ・シャム・セイロン・カリカット・コーチン
・ 1413から1415:ホルムズ・ペルシャ湾など
・ 1417から1433までの3回の遠征:モザンビクなど東アフリカ海岸全域を網羅し、マダかスカル 海峡にまで達した
目的(親善訪問)
・アジアの指導的な政治的、文化的国家としての中国の力と栄光を、南アジアと西アジア地域の 王やサルタンに誇示するため
・中国の皇帝が名義上の宗主たることを王やサルタンに認めさせ、中国の宮廷に朝貢使節を送らせ るため
・(ポルトガルの航海は暴力的戦争行為)
・貿易に関しては中国が輸入しなければならないものがない。中国からは絹、漆、磁器はどこでも尊 ばれた。一方ダ・ガマがカリカットを訪れた時縞の布地、赤頭巾、産後、アブラ、蜂蜜を贈呈した ら王はそれをみて声を出し手笑い、金貨のほうがましだと提督が言った。
B中国からヨーロッパへの「束ね伝播」
*1180年の±2、30年:磁気羅針盤、船尾舵、風車
*1300年から1320年
動く機械時計:14世紀初頭であるが、中国では8世紀から
火薬 :1325年に始めて使われる蛾、中国では9世紀か10世紀
鋳鉄用溶鉱炉:1380頃始めて始まるが、中国では紀元前4世紀以来
印刷 :ラインランドで木版印刷が1375年頃始まるが。中国では9世紀から。
弓形アーチ橋:ヨーロッパでは1340年ごろであるが、中国では7世紀
*15世紀:横型風車、ねじポンプ、斜め歯車装置、クランク軸。ピストン、シリンダーの往復運動を可能にする複動運動。直線運動と回転運動を相互交換する偏心輪、連結棒など
C中国は何故近代科学を確立しなかったのか
ヨーロッパの牧畜―航海文明とは対照的に、中国は灌漑―農業文明であり商人達が権力の座に昇ることを阻んだから。 技術の発達と商人階級が権力の座へ登ったことが、緊密に結びついていた。「官僚的封建制」では文官がたへず絶大な権力をもっていて、商人はいつも低い地位しかなかった。
少し長くなりますがジョセフ・ニーダムの本文を引用いたします。148,149P
まず第一に、中国の降雨量に付いて述べましょう。………そのために中国人は、非常に古い時代から大規模な灌漑事業を行い、河川管理に精通する必要に迫られました。この方面での彼らの事業は、エジプト人をさえしのぐ壮大なもので、大運河は世界で最も偉大な水力工学の成果の一つであります。…………この大事業が必要であったために二つの結果が生まれた、と言っています。まず第一に、何百万人という労働者を監督しなければなりませんでした。そしてこれほど大きな労働力を監督するとすれば、官吏の大群抱えなければなりません。………したがって、それは個々の封建領土の境界を越えておこなわれたわけです。しかも中央集権化すればするほど、封建領主の権力は弱まり、皇帝の権力が増大していったのです。
それに、ヨーロッパの半島構造に対して、中国の大陸的性格も考えなければなりません。ヨーロッパの典型的な単位は商業都市国家でした。ヨーロッパでの水陸の分布状態は、きわめて早くから遠洋航海と商業経済に重きをおかせる結果となりました。反対に中国の一様な陸塊は、…………官職が至上のものであったり、文官が絶えず絶大な権力を持っていた場合には、社会の他のいかなる集団の発展に対しても障害となりました。したがって商人たちはいつも低い位置におかれ、国家の権力の座に登ることが不可能でした。………中国文明が近代技術を発展させるのに失敗した主な原因はそこにあると指摘できるのです。なぜなら、ヨーロッパでは(広く認められているように)技術の発達と商人階級が権力の座に上ったこととが、密接に結びついていたからです。これは、科学的発見のために誰が金銭を蓄えるか、という問題でしょう。それは皇帝でもなければ封建領主でもありません。彼らは変化を歓迎するよりむしろ恐れます。しかし商人たちはといえば、生産と貿易の新しい形態を発展させるために、調査研究にお金をかけるひとたちです。まさにそれがヨーロッパ史上の事実でした。中国の社会は「官僚的封建制」社会と呼ばれてきました。初期の科学と技術の輝かしい成功にもかかわらず、中国人が何故、ヨーロッパの官僚のように、中世思想の壁をつきぬけて、いわゆる近代科学と、近代技術を推し進めることが出来なかったかを説明するには、まだまだ長い道のりが必要でしょう。大きな理由の一つは、ヨーロッパの牧畜航海文明とは対照的に、中国は基本的に灌漑農業文明であり、その結果、商人たちが権力の座に登るのをはばんだと思います。
従来機械時計は14世紀初頭にヨーロッパで発明された、と信じられていた。しかし最近の研究によって、最初の脱進装置はおよそ723年頃、唐王朝の首都長安の集賢殿院の奉職していた仏僧、一行とその強力者たちによるものであることがわかった。
上巻 37P