ミラノ |
ミラノの歴史はガリア人による征服に始まり、その後ローマ人が征服し、ディオクレティアヌス帝はミラノを西ローマ帝国の首都にした。その後ロンゴバルド族が支配し、更にフランク族のカール大帝がこの地を含めヨーロッパ手帝国を築いた。その後ロンバルディア同盟、スフォルツァ家、神聖ローマ帝国、スペイン、フランスの支配を受け、ようやく1861年にイタリア王国になった。 建築ではドォーモが華麗なゴシック様式で有名であるが、正面のファサードが完成するまでになんと500年近くかかっている。 |
▲夕日を浴びるドォーモ(1386年起工1813年完成、奥行き148m、幅87mのゴシック様式) |
▲ドゥオーモを観ながらコーヒーブレイク ▲林立する尖塔 |
▲サン・ロレンツォ・マジョーレ教会 教会前には古代ローマ時代の柱廊 |
▲ドームはロマネスクとビザンチン様式 ▲初期キリスト教のモザイク(サン・アクィリーノ礼拝堂) キリスト教の公認がミラノ(メデリオラム)でコンスタンディヌス大帝により313年に勅令された。ミラノはこの時期ローマ帝国の首都であったからだ。初期キリスト教に関する聖堂がここにあっても不思議ではない。さてこの聖堂は1583年に突然崩壊したので直ちに同じ形のものが再建された、とのこと。但しここには三つの礼拝堂があり、当面に向かってサン・アクィリーノ礼拝堂、サン・イポリト礼拝堂、サンシスト礼拝堂がある。初めの二つは創建当時の4C後半、後者は6C。 |
▲サン・ロレンツォ・マジョーレ正面 ▲サン・タンブロジオ・バシリカ聖堂での祝福 |
▲サン・タンブロジオ・バシリカ聖堂(ミラノ最古の教会) 9世紀に作られ(右側の塔)12世紀に改築されたロマネスク様式 |
▲サンタ・マリア・デルレ・ガラッエ教会 ルネッサンス様式 ▲あまりにも有名な「最後の晩餐」 「最後の晩餐」受難の歴史 @レオナルド・ダ・ヴィンチにより1495年から2年間で完成(縦.4.2m、横9.1m) レオナルドは漆喰が乾く前に一気に仕上げるフレスコ画法を採用しなくて、漆喰の上に鉛白を塗ってシーラー層を作り、あたかもカンヴァスのようにスケッチと彩色を繰り返し、推敲を重ねた。 A完成直後、既にひびが発生するのを見つけたレオナルドは修復の筆を取った B完成後20年経過した時点で、既にカビに覆われて色彩は白っぽくなっていた C食堂と台所を繋ぐ扉を作るためにキリストの足元の壁画を破壊した D約50年後には剥落が始まった。理由はフレスコ画は生渇きの時点で彩色するため、画材が壁材に浸透し、乾燥後に塗膜画硬化収縮しても剥離しにくい。一方彼の採用した新技法はシーラー層を形成するため、慌てて書く必要がなく、じっくり書くには適していたが、テンペラ画の壁への食い込みがないために、乾燥後には剥離し易かった。更に食堂の壁のため湿気が多くカビが生えやすかったり、剥離し易かった。 E1560年には「壁画は非常に悲惨な状態にあり、ぼんやりとした染みに見えるだけ」と記されてる。 F1727年の修理ではカビを取り除くだけでなく、油彩で書き直したりした G1796年のナポレオン侵攻時は厩舎として使用された H1970年より修復開始、現在は完成してオリジナルの美しさが再現した |