ハプスブルグ帝国の都ウイーン

神聖ローマ帝国
  かつて中央ヨーロッパと現在のドイツを含めた地域を神聖ローマ帝国と称した時期があった。ドイツ王でザクセン家のオットー大帝が962年に神聖ローマ皇帝の冠をヨハネス12世の手でいただいた、ことから始まる。この帝国はすごく広範囲で且つ長期間(962年〜1806年)、また名称も権威がありそうだ。しかしイギリス、フランスのようにはっきりとしたイメージが湧かないのは何故なのだろうか。その理由は教皇の力が強く、且つ諸侯が独立性を維持していて、絶対性のある皇帝にはなりえなかったようだ。その良い例が「カノッサの屈辱」で神聖ローマ皇帝のハインリッヒ4世はグレゴリウス7世による聖職叙任権を阻止すべく教皇の廃位を決議したが、反対に皇帝に破門を宣告されてしまう。君主が破門されると臣下の封建義務がなくなるため、皇帝は厳冬のカノッサ城を訪れ、3日間雪の上に立ちすくして、涙ながらに赦免を乞い求め、ようやく破門を解かれた。

ハプスブルグ家による皇帝の独占
フリードリッヒ3世が1440年皇帝になると1806年までごく一部の例外を除きハプスブルグ家が皇帝を独占し続けた。ハプスブルグ家の故郷はスイスのチューリッヒの近くであるが、スイスでは勢力を拡大することが出来なくて、ウイーンを中心として世界帝国を目指した。同家は婚姻政策により勢力を拡大し、一時は太陽の没することなき帝国、とまで言われた。
しかしその後フランス、トルコ、民族問題などを抱え1916年フランツ・ヨーゼフ帝の死とともに終わった。この帝国が絶対王朝にならなかったのは皇帝の選出方法にあるらしい。以下にその理由を参考文献より抜粋する。
  神聖ローマ帝国を代表し、統治する者がローマ王またはローマ皇帝である。選挙で国王に選ばれた者は、イタリアへ赴き、ローマ教王(法王)から帝冠を授与されてはじめて皇帝と呼ばれる。国王を選ぶのは、皇帝選挙で投票する権利を持っていた「選帝侯」で、七名の選帝侯が決定するのが帝国の慣例である。これは世襲制で、1806年の帝国の瓦解まで原則として不変だった。七人のうち三人が聖職者(マインツ、ケルン、トリーアの大司教)、四人が世俗の君主(ボヘミア王、ブランデンブルク公、ザクセン公、プァルツ宮中伯)、このうちマインツ大司教が筆頭格で皇帝職務の補佐役ともみなされていた(以上参考文献:「ハプスブルグ家」 江村洋 講談社現代新書)

ウイーンにおける世紀末の文化
  この運動は、ミュンヘン、ベルリン、ウィーンなどで古い体制からの分離をめざしてはじめられた革新的運動だったが、様式や理念に統一性はない。若手の美術家たちを中心に、アカデミーなどの既成の展覧会とは別に、当時の新傾向の印象主義、象徴主義、ユーゲントシュティール(アールヌーボー)などを反映する作品の発表の場を求めたことが共通した特徴といえる。後に表現主義が興り、20世紀にはいると、ゼツェッシオンは次第に保守化、分裂していった。
ワーグナー(1841〜1918)オーストリアの建築家で、19世紀ウィーンの建築改造運動の指導者。ウィーンに生まれ、1894年からウィーン・アカデミーの教授をつとめた。
ワーグナーは、建築は現代の生活に即した目的・材料・構造をもつものでなければならないという「必要様式」を主張した。その様式は、厳格な幾何学性をそなえたウィーン郊外の聖レオポルド教会(1907)や、直線的な鋼鉄とガラスをつかったウィーン郵便貯金局(1906)で頂点に達する。
セセッシオンは、19世紀末から20世紀はじめにかけてウィーンで起きた芸術運動で、その影響は絵画、工芸、デザイン、建築に及んだ。画家ではクリムトが知られている。
参考資料
「世紀末ウイーンを歩く」 池内紀・南川三治郎 トンボの本 新潮社
「ハプスブルグ家」 江村洋 講談社現代新書

 
▲シュテファン大聖堂                  ▲ペータース教会

▲ウイーンならではの景色

▲グラーベン通り 左端に少し見えるのはペスト記念柱
 
▲シェーンブルン宮殿
 
▲ベルベデーレ宮殿                       ▲スフィンクス
広大なこの宮殿はトルコ軍を破った英雄オイゲン公が18世紀初頭に建造した夏の離宮。見事なシンメトリーの美観を見せるこの宮殿は上宮と下宮からなる。このホテルに宿泊したが早朝の散歩が良い。

▲40番地のアパートメント(マジョリカ・ハウス) イタリア・マジョリカ焼きのタイルによる花模様








▲38番地のアパートメント(上記アパートメントの隣にある)
▲分離派会館セセッシオン(クリムトの絵がある)
▲カールスプラッツ駅(1898年)
現在はカフェとオトー・ワグナー博物館
 
▲国立オペラ座                           ▲シェーンブルーン宮殿の案内嬢


 
▲カフェ・ツェントラルでメランジェを飲む   ▲ザッハーにてザッハートルテとターキッシュコーヒー

ヨーロッパにおけるコーヒーの始まり伝説
1683年、ヨーロッパに深く進入したトルコ帝国の大軍はウイーンの城壁を取り囲みます。陥落は時間の問題と思われましたが、絶望のさなか、トルコ人の風習や言葉をよく知るコルシツキ Kolschitzky の機転よ、ドイツとポーランドの援軍を呼び寄せることに成功。激戦の末に連合軍はヨーロッパの開放に成功しました。コルシツキはトルコ帝国の残した謎の穀物を武功の報償として望みます。これが実はコーヒー豆で、彼の開いた店「青い瓶」がヨーロッパ最初のコーヒー店となりました。勝利後の解放感とともにコーヒーは年のうちにウイーンの街中で売られるようになり、それはやがてドイツ、北欧、イタリアにも広がっていきました。これが近代ヨーロッパの起源、第二次ウイーン包囲事件にまつわる伝説。