鉄と騎馬軍団によって築かれたヒッタイト帝国の首都ハットゥシャ
紀元前1680年頃になると、周辺の王国を統一したラバルナシュ1世がハットゥシャの街を再建し、紀元前1650年頃には、ハットゥシリシュ1世が、この地をヒッタイトの首都と定めた。
ヒッタイトがアナトリア地方を平定し、一大帝国を築き上げた秘密は、製鉄技術にある。当時、ヒッタイト以外でも鉄は作られていたが、ヒッタイト帝国のみがさびにくく加工しやすい鍛鉄を作るのに成功した。この鍛鉄により武器と2輪の軽戦車、それと調教された軍馬。これらの最新兵器による機動性により瞬く間にアナトリア地方を席巻した。
この帝国が最も栄えたのはムワタリシュ王治世下の紀元前1285年頃。当時シリア地方をめぐってあのエジプト王ラメセス2世と対立しカデシュの戦いになった。戦いは長引いたが紀元前1269年頃平和条約を結び引き分けになった。このことは1906年から1912年に掛けてボアズキョイにあるハットゥシャ遺跡から約2万枚の楔形文字より明らかになった。
その後、紀元前1200年頃東地中海方面から移動してきた謎の民族「海の民」によって滅ぼされた。
▲獅子の門(ユネスコ世界遺産No3西アジア・講談社により)
ハットゥシャの街は、標高約1000mの高台に東西約1.3km、南北約2.1kmの地域を、厚さ8m、高さは最大6m、長さ約8kmの2重の城壁で囲んだ城塞都市であった。
神殿では、天候神テシュプと太陽女神ヘパトの2柱を中心とした、多数の神々が崇拝されていたらしい。