場所 ペルガモン

ペルガモンの歴史
@アレキサンダー大王の死後大帝国は分裂し、アレクサンドロス大王の将軍だったリュシマコスが、大王の死後、ミュシア地方を領土として支配するにあたり、国家の財宝をまもる必要から、城塞(じょうさい)のあったペルガモンを拠点にえらんだことにはじまる。
Aリュシマコスの死後、財宝と居城は臣下のフィレタイオスにうけつがれ、前282年にセレウコス朝の宗主のもとに彼が支配者となった。次のエウメネス1世(在位、前263〜前241)から王国の繁栄がはじまり、後継者アッタロス1世(在位、前241〜前197)のとき、ローマと同盟して宗主であるセレウコス朝のアンティオコス3世をやぶり、小アジア北西部の支配者となった(ローマの当面の敵はハンニバルと手を結んだマケドニアのフィリッポス5世で、ローマと手を結んだペルガモンはギリシャでマケドニヤと戦い、褒章として小アジアの全域を手に入れた)。
Bアッタロス1世は暗殺されたのでの子エウメネス2世(在位、前197〜前159)は、ローマとの同盟関係を維持して領土を拡大し、小アジアの大半を支配下においてペルガモンの隆盛時代を迎える。エウメネス2世は大理石を使って峨峨たる要塞を建築の一大展示場とした。丘の中央のアテナの聖域は2階建ての柱廊で囲まれた、その北側にはアレキサンドリアと覇を競った図書館が築かれた。さらにアゴラ、ギムナジウム、そして医学の聖域アスクレピエイオンが作られた。
C次のアッタロス2世(在位、前159〜前138)の時代もペルガモンは繁栄したが、つづくアッタロス3世(在位、前138〜前133)は、最後の王となった。彼には後継者がなく、王国をローマに遺贈した。その後ローマがカルタゴやコリントスへの徹底した破壊を見せ付けられ、ローマに服従することとなり、ペルガモンは、ローマ帝国の属州の主要都市として存続した。現在のベルガマ市周辺には、ローマ時代の劇場や競技場など、貴重な遺跡が数多くのこされている。


▲北川回廊、アスクレピオン

▲劇場(アスクレピオン)での音楽、演劇の鑑賞で気分を和らげる    ▲ トラヤヌス神殿

▲劇場

▲ペルガモンの大祭壇  世界美術大全集 4 ギリシャ・クラシックとヘレニズム 小学館より
歴史:エウメネス王時代のペルガマはローマの権威を背景に大いに発展した、しかしあまりに急に膨張するためローマの元老院との確執が生まれ、ついにローマはガラテリア人を扇動して反乱を起こさせた。しかし王は独力で反乱を鎮めたのでペルガモンの誇りを高めた。王は戦勝を記念して大祭殿を築いた。
大祭殿:南北36.44m、東西34.2mの基壇の中央には供犠祭壇があり、周りはコの字型に柱廊が取り囲んでいる。基壇のフリーズは高さが2.3m、全長136mmからなっている。
そこに刻まれているテーマはゼウスを長とするオリュンポスの神々に反逆した大地ガイアの子ギガンテスが起こした戦いである。この戦いはギリシャ人が想像した最も壮大な戦闘のイメージである。それは闇に対する光、混沌に対する秩序、思い上がりに対する節度の戦いであった。ギリシャ人はペルシャ人との戦いにおいてこれを作ったが、ペルガマ王国はローマ人やガラテリア人に対する戦いとして位置づけた。
文化財の保存:ペルガモンの大祭壇はこれを発掘担当したドイツに持ち運ばれてしまった。現在はベルリンの「ペルガモン博物館」の看板になっている。確かに発掘の労をとったであろうが、約2000年の歴史のある文化財が発掘の経費を負担したくらいのことで持ち去ったのでは、文化財の保護ももとに行われた破壊であり盗掘とも言える。ベルリンにはコピーを残しドイツ人が行った文化財の保護を記念したらよい。本物は生まれた国の台地に返すべきではないだろうか。最もこの種の文化財の略奪はイギリス、フランスがメインであるが。