地名 トロイ
 トロイの南約25kmにある小さな漁港トロアスからパウロたちはヨーロッパへ旅った所(単なる通過点)。
なお、日本人はトロイはシュリーマンによるロマンの世界を想像しがちですが、意外と小さくて驚いたりがっかりしたりです。またシュリーマンの子供の頃の逸話も親を喜ばせるための芝居であったとか、金銀財宝を盗掘しただけで考古学的発掘をしていない、などの興ざめな話しもあります。盗掘について言えば大英博物館、ルーブル博物館、ベルリン博物館など全てといっていいくらい勝手に持っていったものだ。ユネスコの世界遺産で保存すべきものを指定するのも良いが本物は現地の博物館に返却する活動もしてほしいものだ。

 
アナトリア地方北西部、ダーダネルス海峡の近くで海岸から約5キロメートル内陸に入ったヒッサリクの丘にトロイ、古代にはイリオンと呼ばれた街がある。
 1870年4月シュリーマンはこの地を発掘し、1873年6月には、トロイの遺跡を発見した。黄金の杯、王冠、首飾りなどの遺物を発見し、この街がトロイであることを証明したのである。彼はこれらの財宝を伝説のトロイの王の名にちなんで「プリアモスの財宝」と呼んだ。余談ではあるが、この「プリアモスの財宝」は、のちにベルリンに運ばれ、第2次世界大戦のソ連軍侵攻の際に、消失してしまった。
 シュリーマンは、最初からこの地をトロイと断定していたわけではない。
 当時の考古学界では、トロイのある場所は、内陸部にあるピナルパシ近郊であるという説が主流であった。はじめはシェリーマンもピナルパシ説を唱えていたが、ある人物に出会ったことで、その説を変更するようになる。
 シユリーマンに影響を与え、トロイ発見の影の功労者ともいえるその人物とは、アメリカ副領事フランク・カルヴァートであった。彼は独自の研究を重ね、トロイがあった場所は、ヒッサリクの丘ではないかと考えていた。彼は自分の考えを証明するために、ヒッサリクの丘の一部を購入していたほどだ。
 こうして、カルヴァートの研究とシュリーマンの努力によって発見されたトロイは、非常に複雑な遺跡であった。トロイは、街の上に街が築かれ、拡大していった複合遺跡だったのである。
 トロイの遺跡は、その年代から、大きく9層に分けることができる。
    9層にもわたる都市適跡
時代
第2層  紀元前2500年〜紀元前2200年
第3〜5層 紀元前2200年〜紀元前1800年
第6層  紀元前1800年〜紀元前1275年
第7層 紀元前1275年〜紀元前1100年
第8層  アレクサンドロス大王時代
第9層  ローマ時代
 トロイの街を発掘するにあたって、シュリーマンは自説に固執するあまり、重大なあやまちを犯した。ホメロスが物語につづった時代のトロイを見つけ出そうとするあまり、紀元前2000年以降の遺跡部分を、破壊してしまったのである。後年、シュリーマンはこの行為を深く反省したものの、ギリシア期以降の遺跡は永遠に失われてしまった。
 発掘当初、シュリーマンは第2層のトロイを、ホメロスの語ったトロイと断定した。第2層の遺跡は、戦火におおわれたと思われる灰で埋まっていたからである。しかし、その後の研究で、伝説のトロイ戦争の舞台となったのは、第7層にあたるものとされている。

▲トロイの木馬。
おもちゃであると知りつつ、つい撮ってしまう

▲遺跡が何層にもなっていることを示している

▲オデオンの横たわる柱に座ると虞美人草の話が思い起こされる
 アジア州での宣教がテルトリー上難しくなったのでマケドニアからローマに行くべく幻を見たことになっている。次の逸話はパウロの演説が長すぎるのでエウティコなる青年が三階から落ちて死んでしまったが(瀕死の状態では)パウロの奇跡により生き返った、という微笑ましい話である。この逸話は作者のルカが師であるパウロのために、ペテロの奇跡物語の向こうを張って、やや大げさに記したのであろうか。

使徒言行録 マケドニア人の幻
16:6 (第二回宣教の旅)
さて、彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテヤ地方を通って行った。 ミシア地方の近くまで行き、ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった。 それで、ミシア地方を通ってトロアスに下った。その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と言ってパウロに願った。

使徒言行録 パウロ、若者を生き返らせる 20.7〜12(第三回宣教の旅の帰り)
 週の初めの日、わたしたちがパンを裂くために集まっていると、パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜中まで続いた。 わたしたちが集まっていた階上の部屋には、たくさんのともし火がついていた。 エウティコという青年が、窓に腰を掛けていたが、パウロの話が長々と続いたので、ひどく眠気を催し、眠りこけて三階から下に落ちてしまった。起こしてみると、もう死んでいた。 パウロは降りて行き、彼の上にかがみ込み、抱きかかえて言った。「騒ぐな。まだ生きている。」そして、また上に行って、パンを裂いて食べ、夜明けまで長い間話し続けてから出発した。人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた。