円通寺
京都市左京区岩倉幡枝町  電話:075−781−1875
沿革
  江戸時代初期の1639年に後水尾天皇の離宮として造営された。当時は横にある饅頭型の山頂(ケシ山)に上の茶屋があり、そこから深泥池を初め京都の町並みが一望できた。この景色は後水尾天皇が後に作られる修学院離宮の原型であるといわれている。修学院離宮完成後は禅寺となり霊元天皇の勅願所とな李、以来皇室の祈願所になった。
庭園
  屋根の低い建物の庇と廊下、林のような柱の向こうには広い苔の庭がある。生垣の外には竹やぶが続き(以前は田んぼが見えて修学院離宮の風景そのものだ)、その向こうには霊峰比叡山がそびえている。寺から見える全ての景色を取り込んだ自然庭園といえるのではないだろうか。借景というよりは目に収まる景色全てが庭園そのものだ。といっても単なるパノラマではなく変化に富んだ名石が数多くある。石は手前のものはほとんど土中に埋まり、その美しさを隠しているかのようだ。奥の石は半分くらい首を出している。いずれの石も小さく見えるのは視点から遠いためと、辺りが雄大な自然に取り囲まれているため、錯覚により小さく感じるのではなかろうか。この庭は皇族による離宮の庭が何たるを知るに格好である。なお、玄関手前に盤陀石なる名石があるが、以前は庭園の中心石であったと思われる。以前に台所事情が悪かった時に処分されたものを買い戻されたものだそうだ。この石をじっくり見ていただくと、この庭の品格が理解できる。
宅地化と景観について
  郊外にあるこの地にも宅地化の波が押し寄せてきた。京都でも最後となった自然庭園がいよいよ風前の灯だそうだ。世界でも類がないこの庭園の価値と自由主義国家を天秤にかけ、現実的な解決を模索されたとのこと。一都市の問題でなく景観に関する国家的な条例が急がれる。

▲山門には風格がにじみ出ている

▲比叡山遠望  
  聳える檜と杉の木立。その間から垣間見える霊峰比叡山。生垣の手前には控えめの枯山水。
木立は部屋の柱とマッチしてうるさく感じられない。木立の上部は枝が茂っていて空を覆っている、自然に下枝を払った空間の比叡山に視線が向かう。人工的な生垣の濃い緑が画面を引き締める。

▲閉館寸前の夕闇迫る比叡山、少し頭だけを出している庭石

▲伏石中心の控えめの石組み

▲奥の石は立石が中心になっている

▲庭に向かって左側  手前の石は低く、奥の石は高く

▲石をよく見ると変化に富んでいる

盤陀石なる名石が玄関にある

▲深い木立の森で

▲深泥池   残されている自然