碧巌石 西芳寺・天龍寺・金閣寺・光前寺 |
碧巌石:禅門書の一つに「碧巌録」という書物があるが、一人の禅僧の書物ではなく、雪ちょう重顕(980〜1052)禅師が「景徳伝灯録」などに収録されている約1700人の語録の中から100種類を選び出した。その後、円悟克勤{(えんごこくごん)1063〜1135年}が出て、これに「乗示」というまえおきと、「著語」という短評、更に「評唱」という説明と批判を添えて纏め、これを「碧巌録」と名づけた。ではなぜ碧巌としたかであるが、円悟が執筆をした霊泉院の書斎の額に碧巌と書かれていたからである。またなぜ額に碧巌と書かれてあったかは次の通りである。 霊泉院は夾山善会(かつさんぜんね)禅師が開山した。ある日、一人の僧が訪ねて彼に質問した。「いかなるか、これ夾山の境」と問答をけしかけた(つまりお前さんの境地は如何ほどか)。これに対して、彼は答えた。 猿は子を抱いて青嶂の後ろに帰り 鳥は花をふくんで碧巌の前に落つ と答えた どんな所とかこんな所とかとかありません。人跡絶えた絶壁だって、夕方になれば木々に 戯れた猿たちも小猿を抱いて、岩陰のねぐらに帰っていくし、鳥だって、花に戯れては、 碧巌の前を自由自在に飛び回っている。 と答えた。 即ち、猿も鳥も私もそのまんまで宇宙一杯に自由にしています、との意であろうか。 この句に因んで「碧巌」と額にしたためた。 現物の碧巌はごつごつした屏風岩なので、庭園でやや大きなごつごつした石は碧巌を意味することになる。即ち碧巌石は禅と、解釈される。 ▲夾山の門(写真は珠洲市吉祥寺のご住職である山田泰雲師の提供) ▲霊泉禅院の門(写真は珠洲市吉祥寺のご住職である山田泰雲師の提供) ▲碧巌之巌。その前にあるのは将に龍ではないか (写真は珠洲市吉祥寺のご住職である山田泰雲師の提供) |
▲西芳寺上段の滝左側 |
▲苔寺:上段の滝と中段の滝 写真の中央の上段の滝の左よりの石が碧巌 |
▲天龍寺三級の滝左側の白くてごつごつした岩 |
▲左の巨石(高さ184cm、幅120cm)が碧巌石。碧巌録に基づいて作庭されたことが分かる。 以後、禅寺の碧巌石の基準となる |
鹿苑寺の龍門瀑の左の白い石 |
▲洗月泉 龍門の滝でないのが不思議。 龍門瀑であるならば鯉魚石が見当たらない。滝の左側はいくつもの岩を組み合わせているが、ここに「藤戸石」が碧巌石としてあったと思われる。 |
▲藤戸石 名石としての名をほしいままにしているが、彼の運命は流浪の民である。元は岡山県の藤戸の渡の川の中にあり、当時から有名であった。これを義政が銀閣寺に運び、それを細川氏綱が運び出し、更に信長の二条御所へ移り、秀吉が聚楽第に移し、最後に三宝院に落ち着いた。これと同様の運命は慈照寺の九山八海石も信長が足利義昭のために二条御所に運び去った。 |
▲光前寺龍門瀑の左の石 |