2日本庭園の石組み鑑賞への道

  日本庭園は世界でも稀な造形芸術である。天然石を組み合わせるだけで、具象的または象徴的、さらには抽象的な造形を作るのである。はたして加工しない天然の石を組合せるだけで、芸術と言える作品になるのであろうか。日本人は何時からのような手法に興味を持ったのであろうか。
  当資料は、個々の庭園を論じるのではなく、石組を鑑賞するようになった過程を記述し、日本庭園の真髄は、「石組美を鑑賞する」ことを明らかにしたい。

1奈良時代
概要:奈良時代になると本格的な日本庭園が出現する。自然風景である州浜の抽象化、仏教哲学の須弥山の造形化などで、約1250年前に既に日本庭園の特徴である抽象化、石組みの鑑賞が始まっている


東院:庭園全体の汀は総て洲浜で覆われている。単なる造形ではなく、極楽の象徴として造られた。

東院:須弥山石組みが既に約1250年前に組まれている。仏教哲学の「倶舎論」の須弥山を視覚化した造形だ

宮跡:曲水の宴用に設えた庭園。各出島の先端には、意識的に荒磯状の石組みを作った

2平安時代
概要:平安時代末期になると末法思想が広がり、王侯貴族はこぞって極楽浄土の庭を作った。例えば浄瑠璃寺は阿弥陀堂と薬師堂の間に極楽世界を造形した。池庭の島の先端には自然風景の荒磯が造形されている。


平等院:州浜

浄瑠璃寺:荒磯


3
鎌倉時代

概要:鎌倉時代になると中国からもたらされた禅宗や水墨画の影響で石組美を鑑賞するようになる。この時代の石組みは、部分的な石組みであるが、対岸には中国からもたらされた立体造形として龍門瀑がある。なお天龍寺の石組みは鑑賞としての造形であるが、それ以前の永保寺、瑞泉寺、西芳寺の石組みは修業の場であった。


天龍寺:庫裡の対岸に局部的な石組みをし、鑑賞した。

西芳寺:横にある龍門瀑修業の道場としての場から、鑑賞のための石組みへの過渡期。階段は修行僧が空地の坐禅道場に行くためにある。


4
室町時代・前期

概要:平安時代や鎌倉時代の庭は池庭が主体で舟に乗って舟遊しながら島々の様子を鑑賞していた。室町時代になると書院正面に大きな島や出島を地割し、その護岸を石組みで覆うようになり、本格的な石組みを鑑賞する時代になる。

鹿苑寺(金閣寺):庭園中央にある芦原島の護岸の石組みは、金閣からの鑑賞に堪えるような重厚な石組だ。当初の芦原島は金閣から見て右側のみの小さな島でであったが、室町時代になると石組みを鑑賞するようになったため、金閣の正面に石組みが出来るように拡充し、総ての護岸を石組みで覆った。


金閣寺:金閣から見た芦原島の石組みは、金閣に対峙するように巨大な石で組まれている


5
室町時代・中期

概要:室町時代の中期になると庭園全体に隈なく石組みされるようになり、日本庭園は舟遊式から石組みを鑑賞する時代になり、最高潮の時期に入る。

常栄寺(雪舟寺):枯山水部分は彼の水墨画の筆法ともいえ、鋭い角の石が配置されている。この庭は後の龍安寺の魁でもあり、雪舟なくして龍安寺なしと思われる。このほか当庭には隈なく石組みがあり見所が多い。例えば龍門瀑、鯉魚石、龍腹護岸、十六羅漢石組、坐禅石、鶴島、亀島、舟石

保国寺(愛媛県西条市):比較的小さな石が林立し鋭い横石と絶妙な均衡が図られている。石組みの密度が高くなり、しかも全庭に布石されている。造形は自然の景観から脱するために、垂直と水平の線を強調した水墨画の世界である。なお、この庭から少し石を間引いたならば龍安寺の風景と言える。


常栄寺(山口市):雪舟寺として最も信憑性が高い庭。龍安寺の一歩手前。

保国寺(西条市):三尊式枯山水の滝を横から見ると、やや小さめの石が林立していて、立石の有効性が理解できる。


6
室町時代・後期

概要:日本庭園の絶頂期とも言える時代だ。

龍安寺:奇跡的に残った日本庭園の最高峰。しかし、時代の波にもまれ造園時の姿とは異なり、庭園は三方向から小さくなり、土塀越しの自然の風景が見えなくなり本来の鑑賞が出来ない。しかし遠近法、自然美との対照の人工造形美、最小の石組みによる空間構成美こそが石組美の到達点である。

旧秀隣寺:庭園全域に配置された石は、造形過剰にせずに、必要最小限度の石で空間構成した。

北畠神社:比較的一般的な石であるが、池泉部の地割は7つもの出島があり、複雑な造形が楽しめる。

朝倉遺跡:明日の命をも知れぬ戦国武将の庭は、巨大な石や過剰な装飾が無い。


龍安寺:抽象的造形の典型的な例

旧秀隣寺:小さな庭に小ぶりな石であるが、存在感のある庭だ

北畠神社:九山八海

朝倉遺跡・諏訪館跡:石組み配置の均衡美

7動乱の時代

概要:室町末期の端正な石組みによる空間構成美から、桃山期の豪快な石組み美に移行する過渡期の庭である。

松尾神社:立石を中心とした空間構成美に留意しつつも、意表を衝く分厚い石橋は積極的な造形である。

願行寺:山水の景色に囚われない、空間構成美を意図した庭。左右の出島の奥の築山には一石のみの立石があるが万丈の滝を象徴。


松尾神社:要所にある立石の空間構成美の庭。一方中央にある厚い石橋は桃山時代への過渡期の兆候。

願行寺:具象的な造形が無い抽象造形に徹している


8
安土桃山時代

概要:安土桃山時代になると室町時代のような全景的山水風景ではなく、万事派手好みで、極端な造形が好まれるようになり、誰にでも理解しやすいような大見得を切った造形が主体になる。滝や橋、中島などの局部を大写しした造形である。

旧徳島城表御殿:10mにもなる巨石の橋が鶴島、亀島間に架かっている。一点豪華主義の典型的な庭である。

二条城:桃山時代末期の典型的な例だ。鶴島、亀島とも巨石で覆われている。絢爛豪華この上なし。


旧徳島城表御殿:上田宗箇の質実剛健な石組み

二条城:絢爛豪華此のうえ無し。まさに覇者の庭。


9
江戸時代初期

概要:江戸時代になると石組みの造形を楽しむよりも、次第に珍しい樹木や奇怪な石を好むようになる。しかし、江戸時代初期は石組みの造形美や空間構成美を好む風潮が滋賀県の湖北地方や越前地方に残っている。

青岸寺:鋭い稜線の石が近景から遠景までびっしりと詰まっている。奥行きのある造形で鑑賞者を圧倒する。

三田村家:石組みが主体の庭で、石組み間に脈絡があり、奥深い地割のため、遠近効果が発揮され空間構成が優れている。

玄宮園:大名庭園で最も石組みを重視した庭。配石手法は山水から離れた抽象庭園だ。


青岸寺:奥行きのある庭で、さらに山畔を土盛りまでして立体造形性を高めている。石は稜線の鋭い石のみでその量にも圧倒される。石組みは手前に鶴亀、蓬莱山兼用の島があり、その奥に不動の滝、遠景には三尊枯滝がある。完全に遠近法を意識した庭で石組の神秘さを感じるほどである。

三田村家:石は手前が大きく徐々に小さく配石されている。つまり遠近法の効果二より奥行きが感じられる、心憎いほどの庭だ。また野性的な石の選択と具象的な石橋はそれとなく置かれているだけだ。安土桃山時代まで遡るか。

玄宮園:煩わしさを感じさせない石組みの迫力と静謐な空間、これこそ大名庭園の最高傑作。

10江戸時代中期

概要:湖北地方には江戸時代中期においても樹木が主体でなく石組みが主体の庭がある。

玉泉寺:小さな池庭に卓抜な造形の滝組がある。滝組はあたかも花弁が開いたような形に石が反り返っている、一方護岸の石組みは滝組の石とバランスをとるように反対に沿っている。動きのある石組だ。

大通寺(蘭亭):稜線の鋭い立石と石橋の横石がバランスのとれた迫力のある庭。江戸中期の庭としては例外。なお当寺には含山軒庭園と学問所跡庭園もあるがいずれも素晴らしい個性的な石組みである。

芝離宮1686年)大名庭園の中で最も石組みに拘った庭ではなかろうか。


玉泉寺:互いに反り返り緊張を生む荒々しい石組み

大通寺:競って登る石群

芝離宮:何と静かな迫力だ!江戸時代にこのように石の特徴を熟知した庭が作られていたのだ。

11江戸時代末期

 江戸時代末期の庭と言えば、くだらない庭の代名詞であった。しかし、以下の素晴らしい石組みが健在だ。

 百瀬家の庭は端正で上品に佇んでいる。粉河寺と阿波国分寺は最近の調査で江戸末期と判定された。この時代にも地方においては野心的な石組みが試みられていた。


百瀬家(松本市):左滝は伝統的で厳格な石組みで、龍門瀑風でもある。

百瀬家:右滝は自由奔放な滝(木立背後に一部見える立石にも注目)

粉河寺(和歌山県):安土桃山時代かと思わせる雄渾な石組みに圧倒される。この石組は約40m位はあるだろう。擁壁を兼ねたこの石組が江戸時代末期に存在したことは、日本庭園の伝統が残っていたことが解る。

阿波国分寺:巨石が軽やかに舞うような石組は前代未聞

12現代(重森三玲)

概要:私達は彼が昭和14年に書き上げた『日本庭園史図鑑』を知っている。しかし、それは彼が出版したという事実を知っているだけである。彼は昭和11年からの3年間に全国で約300庭を実測し、そのうち243もの庭をこの本に掲載した。一口に庭の実測図というが、重森は詳細な平面図、立面図を作成し、写真を撮影し、沿革を調べ上げ、これらを整理したのである。私はこの地道なで膨大な時間と労力を費やした仕事が彼を大作庭家に育て上げたのだと思う。

一方重森は古典に学びつつもヨーロッパの抽象主義(特にカンデンスキー)に傾倒した。このことが彼をグラフィックデザイナーとしての才能を開花させたのではなかろうか。また忘れてはならないことは、重森は偉大な美術評論家でもある。彼は作庭のみならず、作庭論、美術論の著述は他の追随を許さない(『日本庭園史図鑑』と『日本庭園史大系』。

重森の作品は200庭もあるが、大別すると以下の4つのタイプに分類できる。

@神社仏閣を中心とした立体造形の庭:東福寺・松尾大社は連続的に変化する立体造形

A龍安寺の庭は終生彼の課題であったが、類似の庭の:小倉家・興禅寺は自然人美と人工美の好対照

Bグラフィックデザイナー:友琳会館・福智院は鮮やかな色彩とシンプルな曲線と直線

C茶室と露地:小河家・増井家などであるが茶室は重森の創作に満ちている。露地も作庭家の露地である。作庭家で露地や茶室を作ることの出来る人は稀である。しかもすべて創作性豊かだ。


@立体造形の庭
 重森の立体造形は視点が移動すると連続的に造形が変化することだ。多視点造形とでもいえる特異な庭園だ。一般的な庭園はビューポイントは一か所であることを考えると興味が尽きない。

東福寺(S14)

岸和田城(S28) 石組は鳥陣越しに大将陣が重なって見え複雑な造形になっている

A空間構成美の庭
 重森は龍安寺の庭について終生拘った。平庭式の抽象枯山水の庭は10庭を超えるが、ここでは郷里の友人である小倉家の庭と重森が龍安寺の呪縛から解放されたと思ったであろう興禅寺の庭を紹介する。

小倉家:大自然の真っただ中に焼き板で囲まれた人工造形の庭がある。

興禅寺(木曽町):龍安寺仕様の七五三の庭であるが、自然の雲海を象った人工の造形を入れることで自然界と反発しながらも調和した創作庭園だ。

Bグラフィックデザイナーの造形庭園
 現在においては広い面積で目を楽しませてくれる数々のテーマを盛り込む庭園を作ることは無理である。昨今の住宅事情に鑑みた小さな庭を作るにはいかなる仕掛けが必要であろうか。重森はアクセントの強い目立ちやすい造形で鑑賞者の視線を集めたと思われる。

友琳会館(岡山県吉備中央町)
 斬新なデザインで従来の日本庭園の枠からはみ出している。このような造形こそが世界基準の芸術と言えまいか。

福智院(S50):古典的な造形と近代的な幾何学模様の造形を共存させている

C茶室と露地
 作庭家で茶室や露地を作った人は小堀遠州は有名である。しかし現代においてそのような人は稀ではないだろうか。重森は古典を模した茶室や露地ではないのだから、多才な芸術家と言える。作品の一つ一つには施主との交流から生まれた、細やかな愛情が注がれている。

井上家(S15):この蹲踞庭園は深山幽谷で湧水を組み上げる風情だ。また蹲踞の背後にある鏡石は西芳寺の龍淵水を思わせる造形であるが、重森は茶禅一致と考えてのことだろう。

増井家(S31):露地には香東川の棒石を網代模様に造形した洲浜と、丹波鞍馬石による洲浜の二重州浜が見事である。左奥には貴重な四方仏の蹲があり、背後には創作竹垣もある。また圧巻なのは茶室や書院は重森による美しい襖絵が描かれている。

天籟庵(S44)一草一木も無い抽象露地














越智家(S32)