上求寺(じょうぐうじ)、  これぞ浄居寺!を確信
 夢窓が臼庭で悟り、鎌倉で恩師の仏国国師に印可を与えられた。翌朝、父のいる甲斐の国旅立った。甲斐では浄居寺で修行した、といわれているが、その場所は定かでない。現在、山梨県山梨市牧丘町窪平154に浄居寺跡の碑があるが、最近建てたもので確かとはいいがたい。 
 川瀬一馬氏の「禅と庭」には現在史蹟として認定されている場所ではなく、倉科にあった「上求寺」なる地籍であろうと、推論している。ここには石田邸があり、ここから数丁の山道を登ったところに、東の谷が開けたところがある。ここなら「浄居」にふさわしい地である、と書いてある。またここには清らかに水が流れていて、滝になっている(雄滝、雌滝).若き日の国師が幽棲して、坐禅修行に励まれるのに相応しい勝地である、と記されている。
上求寺にたどり着くまでの出会い
 私は信州にいる兄と当地を訪ねた。しかし入り組んだ田舎の山道で地図なんか見たって何の役にも立たない。慶徳寺の藤科ご住職にご相談した。ご住職は任せておけ!と言わんばかりの返事であった。当日は従兄弟にあたる社長さんに会社を休んで道案内をしていただいた。以前キノコ取りのとき偶然に上求寺と滝の横を通ったことがあるからだ。我々4人は道無き道を棒切れで雑草を叩きながら進んだ。蛇に襲われないように用心するためだ。鬱蒼と茂る林の中を進み袖切り坂、繭種石、不動尊を過ぎると奥まったところに黒光りしている巌から清冽な滝が落ちているではないか、感動した。ここで夢窓は聖胎長養の修行をしていたのだ!しばらく滝の前で声もなく見とれていた。が、ようやく写真を撮影する気分になり、黒光りする滝を慎重に撮った。滝は沢のどん詰まりあり、そこを迂回すると突然小天地が開けていた。そこにはまぎれもない不動堂(上求寺奥院)があった。浄居寺はここに違いない、自然の巧まざる造化の妙ともいうべきか。帰り道はより困難な道のりであった。ご住職は以前に脳梗塞をされたため、手足が大変ご不自由である。坂道お尻をすりながら降りられた。まったく申し訳ないことだ。里に下りて来て改めて御礼を申し上げると「人の道として当たり前のことです。また僧侶の身ですから」であった。今回夢窓の行脚先を追体験したのだが、将にこのような出会いのためだったのか。

▲里にある不動堂

▲上にある不動堂近くから見た富士山(藤科ご住職提供)
 
▲この道しるべから道なき道を進む           ▲繭種石

▲不動尊碑

▲雌雄の滝(当日は左側の滝からは水が落ちていなかった)
 夢窓は修験者のように滝に打たれたのだろうか

▲ご住職が退職金をはたいて修復されたそうだ。当日は奥さんが臥せっていて、葡萄の剪定をしなくてはならないので、我々を案内できない事をしきりに悔やんでいるご様子であった。この不動堂に対する責任感のなせる技であろうか、敬服する次第だ。

▲突然に慶徳寺御住職の読経が始まった。活きている宗教だ。
 
▲まさに不動様                      ▲従兄妹にあたる若月さんにご案内を頂いた

▲二階堂道蘊(どうおん)の墓