岸和田城庭園(八陣の庭)国名勝指定記念
「日本庭園と重森三玲」

 講演会:4月12日(日) 13:30〜15:00
 写真展:4月9日(木)〜15日(水) 10:00〜17:00
 ギャラリートーク(9・11・12・13・15日) 13:00〜13:30
 講演会・ギャラリートーク:庭園史研究家 中田勝康氏
主催:岸和田市観光振興協会・岸和田市・岸和田市教育委員会
講演会と写真展の要旨(以下の一覧表に対応した日本庭園を例示する)
@日本庭園が芸術であるためには、如何にあるべきかを、具体的な庭園例で示す
A日本庭園を5系譜に括る:古代から現代にいたる各系譜の生成発展を例示する。
  この系譜は外来の思想(道教・浄土教・禅宗・ヨーロッパ抽象主義など)と天才作家(蘭渓・夢窓 ・雪舟・小堀遠州・上田宗箇・小川・重森など)が織りなす庭園史になりました。
展示写真の例

第1の系譜:神仙蓬莱の庭

第2の系譜:大池泉庭園(桂離宮)

第3の系譜:枯山水庭園(1/6) 禅の庭の原点である龍門寺の滝
 蘭渓道隆が1247年に鎌倉に行く時この滝と出会い、南学に龍門寺の創建を託して鎌倉に経った。当龍門瀑は禅宗の庭園の中核をなすものであり、元祖禅宗の庭ともいえる。黄河上流にある龍門瀑は40mの落差があるが水は濁り、滝は横から眺める。一方当龍門寺の滝は川が直角に曲がり滝を正面に見える絶好の位置にある。

第3の系譜 :禅庭園の逸話を証明する碧巌寺庭園(2/6)
 1466年頃に菊池家20代当主の為邦が肥後守護の職を嫡子重朝に譲り、亀尾城下の山紫水明の地に隠居して、日夜『碧巌録』の研究に励み仏門に入った。彼は武将に『碧巌録』を講じたと言われている。庭園はその時に作られたと考えられている。

庭園の特徴:コンパクトな庭であるが『碧巌録』の物語が丁寧に造形されていて、修業の場としての庭園を彷彿とさせる。各地に龍門瀑と称せられる庭が多数あるが、この庭の発見により龍門瀑の庭は、『碧巌録』の物語の史実に基づいたものであることが判明した。詳しくは発見者である斉藤忠一氏の著書『図解 日本の庭』 東京堂出版 160161P参照。なお、詳細は『碧巌寺庭園修理工事報告書』碧巌寺 東京堂出版(非売品)がある。文は斉藤忠一氏である。
当庭園には碧巌石・鯉魚石・坐禅石・観音石・猿石・龍腹護岸・九山八海石を丁寧に造形化している。私が感激したのは画面上部の池中にある護岸手前の傾斜した小さな石である。破損した石が落下したのかと思っていたが、上記『碧巌寺庭園修理工事報告書』によると、池中の土中深く斜めに埋め込まれているそうである。斎藤忠一氏によると以下の禅語録の「鳥は花をふくんで碧巌の前に落つ」を活写していると解釈したそうである。
五灯会元 夾山」より  猿抱子帰青嶂後 鳥啣花落碧巌前
 猿は子を抱いて青嶂の後ろに帰り は花をふくんで碧巌の前に落つ

つまり傾斜している小石は、碧巌録に書かれている鳥が斜めに滑空している姿を造形化していたのである。


第3の系譜 江戸時代にも龍安寺を超える抽象枯山水庭園(3/6):久留島家庭園
 久留島通良嘉が栖鳳楼庭園を橋本東三に作らせた抽象庭園。石は互いに離れていて完全抽象の世界。一方常栄寺や龍安寺の石組は数個の石による群を構成していて、全体的には群と群を再構成している。象徴庭園から脱皮した新しい方向を示す

第3の系譜:江戸時代にも龍安寺を超える抽象枯山水庭園(4/6):東海庵(妙心寺)
東海庵
(東睦宗補1814年):江戸時代末期に龍安寺をも超えたとも云える抽象庭園が完成した。
一般的には龍安寺が頂点で、以降衰退すると言われていたが、この庭をはじめとして、時代ごとに龍安寺とは異なる形の抽象庭園があることが解る。

第3の系譜:現代の龍安寺ともいえる枯山水庭園(5/6):岸和田城
この視点から見ると日本古来の石組の造形は陳腐に見えないこともない。一方城郭にヒントを得た屈曲する造形の新鮮さに心を奪われる。日本の伝統とヨーロッパ抽象主義が混然一体となった傑作である。

第3の系譜:現代の龍安寺ともいえる枯山水庭園(6/6):東福寺
四神仙島(一島見えない)の物語を象徴した現代枯山水の代表。石組みは大きな立石とバランスを取るように三本の臥せ石が組まれている。このような石組みの例は小堀遠州作の金地院にある。

第4の系譜:石組み構成美(1/4) 京極氏庭園跡 ランドマークとなる巨石は戦国武将随一の名石

第4の系譜:石組み構成美(2/4)粉河寺
絢爛豪華な鶴亀蓬莱と玉澗流の橋の庭である。従来桃山時代の作品と言われていたが、最近の研究で江戸末期と判明したが、この時代でも剛健な造形感覚があったことが判明した。

第4の系譜:石組み構成美(3/4)岸和田城
この造形は手前の陣(鳥陣)と奥の陣(大将陣)の組み合わせにより得られるがこのように移動するごとに新しい立体造形が生み出されてくる。ビューポイントが連続的に生ずる唯一無二の庭で重森の独創である。

第4の系譜:石組み構成美(4/4)松尾大社
重森の遺作に相応しく、巨石が軽々と舞っている。自由な配石は抽象性の極みである。

第5の系譜:幾何学模様の庭(1/7)
芝離宮:江戸時代初期に純粋に幾何学模様の造形を極めていたことは驚きである。その原因は大久保家の藩地であった小田原 から、稜線の鋭い根府川石が運ばれたからだ。

第5の系譜:幾何学模様の庭(2/7)
 阿波国分寺(江戸末期):阿波の青石の特徴である板状の石を活かした造形は近代的な幾何学模様を呈す。


第5の系譜:幾何学模様の庭(3/7)
岸和田城
(重森三玲S28年):広大な敷地にある八陣の庭はテーマを活かして分散と統合が図られた見事な地割である。日本の伝統的石組と西欧の抽象主義絵画が見事に融合している。このような斬新な発想のもとに作られた造形は、世界基準の芸術に適うと云える。また庭を周遊しながら鑑賞すると前景・中景・後景の組み合わせた造形が連続的に変化する。

第5の系譜:幾何学模様の庭(4/7)
東福寺(重森S14年):勅使門の廃材を活用したが、正方形の石を碁盤目状に配置する造形は古来多くあるが、重森は苔と石材の組み合わせや、周辺部にぼかしを入れて洲浜を白砂で浮き上がらせること(現在は白砂部が苔で覆われていて、洲浜の造形は消失している)で新たな造形とした。これ以上斬新なデザインがるだろうか。誰にでも親しまれる庭。

第5の系譜:幾何学模様の庭(5/7)
旧友琳会館
(重森S44年):果たして日本庭園と云えるか。地上に描いた絵画と云うべきか。なおこの意匠は友禅染の「束熨斗文様振袖」にヒントを得た造形である。

第5の系譜:幾何学模様の庭(6/7)
福智院
(重森S50年):遺作ともいえる最晩年の作品である。この斬新なデザインと色彩は既にS14年に東福寺の西庭にプロトタイプがある。

第5の系譜:幾何学模様の庭(7/7)
清原家
(重森S40年):三方を建物に囲まれた庭で、1・2階の各部屋から鑑賞できる。現代抽象絵画ともいえる三重洲浜の造形は自然の洲浜風景の象徴を脱皮した抽象造形になっている。