木下尚江の小説に描かれた明治天皇のご巡幸について(中田家でのこと)

木下尚江は明治2年に松本市北深志天白町に生まれた自由民権運動家、小説家、評論家、雄弁家である。彼は明治13年の明治天皇のご巡幸の記憶(12歳)を明治39年に著作された『懺悔』の中に回顧録として第4章に御巡幸が記している。

 内容は沿道で明治天皇の通られる様子が描かれているが、予定より遅れて馬車が通られたのは、出川の駅(御小休み所の中田家)でお供の者が庭の池で魚釣りに興じてしまい、遅れたことが記されている。予定が遅れた理由は後日談として「魚が入れ食い状態になったのは、10日も前から鯉に餌を与えなかったため」との内容が書かれている。

出展は『木下尚江集』明治文学全集45 筑摩書房 昭和40

『懺悔』 第四章 御巡幸(273頁)の抜粋は以下のようになる。

         第四章 御巡幸
              (一)
 予は十二歳の頃に、北米合衆国の前大統領グラント将軍の来遊と、日本天皇の地方巡幸とを見た。余は教師から始めて北米合衆国の共和政治、大統領と云う王の如きものゝ年限を定めて人民から選挙される語を聞かされた時は、殆ど月か星の他界のそのように感じた。若し気に容らなければ之を廃て仕舞ふと言うが如きことは、日本人に取りて餘りに耳遠き奇談であった…………。

         (二)
 御巡幸の日は到来した。余等はその朝早く学校の広場へ集合する筈であったが、昨夜よりの雨がまだ止まないので、母は忙しく新たな蝙蝠傘を買ふてきて下すった。然るに余は慈母の高意に反して、慣れたる古傘を差して行くと剛情を張るのである。…………。

 待ちに待ち疲れた時、簿(ろぼ〜天使の行列)粛々と近づいた、きらめく劔を突き揃えた騎兵の花やかさ、御馬車を挽いた六頭のアラビア馬の雄々しさ、御馬車の窓の中をと思ふ時教師が『敬礼』と厳命を下したので、早速謹んで頭を下げた。頭を上げた時御馬車は既に遠く行き過ぎて居たのである。そもそも今日蟻の如くに此の街道に集まったる老若男女は、只だ親しく天皇のお顔が見たいとの一念であった。然し、思ふに誰も彼も其の親しくみることを得たのは騎兵とアラビア馬とであったであろう。…………。

 如何してあんなに御通行の時が後れたのかと後で聞いてみたが、それは出川駅の御小休みで案外お手間が取れたのだと云ふ事であった。出川駅で供した御慰みの計画は其の頃非常な評判であった。御小休所の庭上なる池から鯉を釣って天覧に供えたとのことであったが、竿さえ投げれば直ぐに大きな魚が引っ掛って来るので、龍顔誠に麗しく見受け奉ったとのことである。如何して其のように能く釣れたものかと不審であったが、其れは十日も前から餌を与えずに、充分腹を減らして置いたのだと云ふことであった。聴くもの皆な手をうってその妙案を褒めちぎった。余は只だ奇體なことをするものだと黙って聴いていた。…………。