作庭記 |
極楽浄土の庭は平安時代の時代思想を強く受けている。この時代を理解するためには作庭記という本を理解する必要がある。例えば平等院、法金剛院、毛越寺、浄瑠璃寺、円成寺などは最近発掘された事実と当本の記載内容が全く一致する。また西芳寺は当初極楽浄土の庭として作られたため、この庭を理解するためにも作庭記を一読しておきたい。 |
平安時代の庭園はには寝殿造りの建物はセットになって作られた。作庭記はこの庭の作り方について纏めたものである。作者は橘俊綱という説が有力のようである。彼は藤原道長の孫、頼道の子に当たり、王朝文化のど真ん中で育った。よって彼の書いた書物は単なる庭園作りのノウハウではなくて、王朝文化について語っていることになる。 以下その一部を森蘊(おさむ)氏の「作庭記」の世界 NHKブックスよりの約を記載する 石を立てるに際して先ずおおよその趣意を心得ておく必要がある 一、地形により池の形に従って、よって生ずる所々に趣向をめぐらして、自然風景を思い出して、あそこはこうであった、ここはどうであったなどと、思い合わせて立てるべきである。 一、昔の名人が造って置いた有様を模範として、家主の意見を心に置いてそれに自分の風情をめぐらして立つべきである。 一、国々の名所を思いめぐらして、その面白い所々を自分の考えに取り込んで、大体の姿をその所々になぞらえ、素直に立てるべきである。 私のコメント:自然の風景の沿って、先人の意見を参考に、自然のポイントを吸収して作庭せよ、と三原則を恥じもベている。実によく出来ている。率直である。王朝文化のど真ん中の人が書けるのだろうか、と気になる。 石を立てる様式は色々ある。大海の様、山河の様、沼池の様、葦手の様などである。 一、大海の様は、先ず荒磯の様を立てるべきである。荒磯は岸のほとりにには不恰好に尖ったいくつかの石を立て、水際を基礎として立ち上がった石を、数多く沖のほうに立て続けて、その他にはなれ出た石も少々あるが良い。これはみな波のきびしくかかるかかる所で、石が洗い出された姿である。さて所々にずっと洲崎や白浜を見せて、松などを植えるべきである。 島姿の様々を言う事。山島、野島、杜島、磯島、雲形、霞形、州浜形、片流、干潟、松皮などである。 一、磯島は直立した石を所々に立て、その石の望むにまかせて、浪打の石を荒々しく立て連ねて、その高石の間には、あまり高くない松で、年数を経、姿が優れており、緑深いものを所々に植えるべきである。 一、雲形は、雲が風にたなびき渡った姿で、石もなく植木もなくて、一面に白洲であるべきである。 一、霞形は、池の面を見渡すと、朝みどりの空に、霞の立ち渡った様に、二かさね三かさねにも入れ違えて、細々とここかしこがとぎれ渡って見えねばならない。これも、石もなく植木もない白洲であるべきである。 一、すはま形は、普通の州浜の様にするのである。但しあまりきちんと紺の紋などの様になるのはよろしくない。同じ洲浜形であるけれども、或いはひきのばしたように、或はゆがめたように、或いは背中合わせにうちちがえた様に、或いは洲浜の形かと見えるけれども、やはりそうではない様に見えなければならない。これに砂を散らした上に、小松などを少々植えるが良い。 一、干潟様は、塩の干あがった跡の様に、半ばあらわれ、半ば水に浸ったようにして、自然に石が少々見えるのである。樹はあってはならない。 滝を立てることに就いては口伝がある。中国の書物にも記されていることが多いとか言うことである。 不動明王が誓って言われるには、滝は三尺になれば皆我が身である。四尺〜五尺ないし一丈〜二丈になれば勿論のことであると。このようなわけで必ず三尊の姿であらわれる左右の前石は二童子をあらわすのであろうか。 備考)法金剛院の滝を作り直したのは大きいほど不動明王の功徳が大きくなるから 立石の口伝 石を立てるには、逃げる石があれば、追う石があり、傾く石があれば、支える石があり、踏まえる石があれば、受ける石があり、仰ぐ石があれば、うつむく石があり、立つ石があれば、伏せる石があるといっている。 |