真如院 織田信長が作らせた庭を重森三玲が改修
京都市下京区猪熊通五条上ル  特別公開のみであるが完璧な状態に手入れがされている
沿革
  当院は、日蓮宗大本山本寺の元塔頭で、1535年日映上人により創建された。しかし翌年消失し、その後再建されたが、1788年の京都大火施再び消失した。その後1789年に再建、さらに1832年には新築。昭和24年に明徳高校の校地拡張の必要から現在地に移築した。
庭園改修の経過
  織田信長は1568年に足利義昭を当院に招いた。庭園はその際に作られたと思われる。歴代の足利将軍は大変庭園好きである。信長による傀儡政権とはいえ将軍家の権威は一応保たれていたからである。その庭園は1799年の「都林泉名勝図会」に描かれているようであったと思われる。しかし、江戸時代末期には相当荒廃し、明治時代になってからは、度々改造されてしまった。重森三玲は昭和11年の実測調査に、そのことを記している。その後、真如院が現在地移築されてから重森により改修された。
  重森は改修に際して、次のように記している。
@「都林泉名勝図会」を参考にした
A昭和11年に氏の行った実測図を参考にした
B地割りは実測図を重点を置きながら図会を参考とした。
C石組みは図会の室町様式に重点を置いたを置いた
庭園
  重森の最も頭を悩ましたのは、奥行が図会の半分以下であることではなかろうか。そのため、図会とは異なり随分横長の庭園になっている。しかし、何といってもこの庭の存在価値は小判石を鱗形に敷いて、水の流れの小波を表現していることである。このような表現は唯一無二のもので、室町時代と桃山時代の革新の時代背景と信長の破天荒な性格がマッチして出来たものであろう。
図案化の庭と飾りの庭について
  このことについて、重森完途は「日本庭園史体系 No8」の中で日本庭園は99%までが山水の造形である。残りの1%が飾りの庭園と図案化された庭園である。飾りの庭園の代表は龍安寺であり、図案化された庭園は真如院の庭園である。図案化された庭園が体系化されなかったのは、発想そのものに、形だけが先走って、心理の襞に触れることがなかった、と記されている。また、図案化による庭園も、飾りの庭園と同じく発展継承されなかった事実は、わが国の庭園表現が、山水そのものに頼り切って他を省みる余裕すらもなかったとしか言いようがない、と記されている。

▲1799年の「都林泉名勝図会」に描かれた真如院庭園
  奥行きが現在の庭園の倍以上あり、鱗状の波が眼前に迫ってくる。橋は中央に架かっているが、源流は右奥のようである。

▲上流側から見た全景
  石像美術品の「呼子手水鉢 写真左下」と「瓜実燈籠 写真左奥」。名石の「烏帽子石」がある

▲上流から見た水の流れ

▲造形化された水の流れ。このような手法が発展しなかったのは何故だろうか

▲下流からの全景

▲縁先の庭は細長くなっている