アーヒェン フランク王国の首都 | |
アーヒェン大聖堂の歴史 @カールはカロリン朝初代のフランク国王ピピン三世の長男として、742年アーヒェン二生まれた。父が死ぬと弟カールマンと共同統治者になったが、771年弟の死により唯一の国王となった。カールは父と同じように領土の拡大を行った。 A800年、ローマ教皇レオ三世がカール大帝に西ローマ皇帝の帝冠を授けた。 カール大帝はビザンチン文化の影響のもと、古代ローマ帝国の文化、芸術の復興をした。いわゆる「カロリングルネッサンス」 B805年に完成した宮廷礼拝堂はカロリングルネッサンスの白眉といわれる。 C神聖ローマ皇帝になるものは、「カール大帝の玉座」と称される椅子に座った瞬間に即位したとみなされた(うる覚えであるが、土曜日の午後一時から博物館員の案内でのみ見学が出来る) E1165年にカール大帝が聖列されると、大帝の遺骨が1「カール大帝の聖遺物箱」移され巡礼者の数がますます増加、宮廷礼拝堂は拡張された。 F15世紀に内陣をゴシック様式に変更。これにより黄金の棺は光の洪水に包まれるようになった。パリのサント・シャペルを参考とした。 G1664年に頂塔のついたバロック様式にした。 H第二次世界大戦で甚大な破損を受けた。ステンドグラスなど取り替えられた。現在も修理中。 |
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ゲルマンの伝統:兄弟分割相続の影響 @メロヴィング家:クロービスはメロビング朝の開祖となり、496年にカトリックに改宗して王国の基礎をかためていった。しかし王家は分割相続制を採用していたため、その後は分国化と内乱にあけくれ、その結果、地方豪族の台頭と教会権力の強大化をもたらし、各領土における封建的主従関係(→封建制)が王国の根幹を形づくっていった。 Aカール大帝の相続:父が死ぬと弟カールマンと共同統治者になったが、771年弟の死により唯一の国王となった。 B二代目ルートヴィッヒ1世:カールは、フランクの伝統にしたがって、3人の子を後継の共同統治者に任命したが、そのうち2人はカールの死に先だって死亡した。このため、813年にただ1人残ったルートヴィヒ1世を皇帝に任命し、翌814年に死去した。 C三代目の相続でフランク王国分裂:ルートウィヒの死後、3人の子の間に相続争いがおき、843年のベルダン条約でフランク王国は3分割されることになった。このうち、東フランクは現在のドイツの、また西フランクはフランスの起源である。長男のロタール1世が獲得した中間部には現在のベネルクス三国とスイス、イタリアなどがふくまれるが、彼の領土は870年のメルセン条約で細分化され、単独の国にはならなかった。東フランクでは919年にカール大帝の血統がたえ、ハインリヒ1世によってザクセン朝(→ザクセン)がたてられて今日のドイツのもととなった。フランスでも987年にカロリング家にかわってカペー家のユーグが王となっ利、今日のフランスのもととなった。 |
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カロリングルネッサンス フランク王国は、古代のゲルマン世界を統一し、ローマの文化を受容してヨーロッパ全域にひろめ、後代にギリシャ・ローマ古典文化をつたえる役割をはたした。とくに、カール大帝の時代には、カロリング・ルネサンスとよばれる文化的繁栄をもたらした。宗教の面では、カトリックをうけいれることで王国の支配を強化したが、一方、北イタリアの征服地をローマ教皇に寄進して教皇権の強大化にも貢献した。制度面では、古代王制から出発して王国内に封建制を定着させたが、これは農業経済の発展をもたらした。中世初期のヨーロッパが一定の統一性と共通性をもつことができたのは、フランク王国に負うところが大きい。 |
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なぜアーヘンを首都としたか カール大帝のカロリング王朝に関する参考資料としては以下の本が大変わかりやすく納得できた 「地上の夢 キリスト教帝国」 五十嵐修 講談社 講談社選書メチエ 1、アーヘンが首都になるまで フランク王国は首都のない国家であった。国家には、場所としての政治的中心は必要でなかった。王がいるところが政治的中心であり、王の移動とともに「首都」は移動したのである。いわゆる「旅の王権」の始まりである。国家の威信はつまるところ、国王自身の威信にかかっていたが、その威信は結局のところ、王自身の軍事的才能と血統に由来するカリスマ性にあり、欧の威信を際立たせる舞台装置はさほど必要とされていなかった。………フランク王国では一つの年が政治的中心になることはなかった。その最も大きな理由は、すでに述べたフランク王国の独特な分割継承制度にある。フランク王国の基礎を築いたメロビング朝の国王クローヴィスは晩年にはパリに居を定めた。しかしパリがフランク王国の首都にならなかった。511年のクローヴィスの死後、四人の王子たちの間で、王国が分割されてしまったからである。四人の王子たちはオルレアン、パリ、ソワソン、ランスをそれぞれ居城に選んだ。…………カロリング朝の創始者ピピンは年に滞在することを好まず、都市周辺の田園地帯にある王宮所在地に滞在することを好んだ。ピピン統治時代のカールも我欲滞在した場所には主に三つの地域がある。パリ周辺、シャンパニュー周辺、モーゼル川流域である。 2、首都が必要になったか 首都が必要になった理由はビザンツとの緊張関係の高まりにあるように思う。あとで述べるが、この年はフランクフルとでカールは大規模な宗教会議を開催し787年にビザンツで開催された公会議の決議を批判した。……ビザンツ皇帝は異端の信奉者であり、それに対してカールこそは正統信仰の擁護者であるという思想が明確に姿をあらわしたように思われる。……ビザンツと対抗するために「首都」を建設する必要を感じたのではなかろうか。 3、なぜアーヘンを首都としたか @カールはゲルマン文化を愛していた。カロリング家の旧来からの基盤であるアウストラシア地域を自分の故郷であると考えていた。 Aカールの時代にザクセンとバイエルンの併合により、フランク王国は当方に著しく伸帳した。メロヴィング期であれば、ガリアが政治的的中心であっても当然であったが、フランク王国が東方に著しく拡大したカールの時代においては政治的中心がさらに東方に移るのは必然的であった。 Bアーヘンが選ばれた理由ははっきりしないが、温泉が沸いているからとの説もある。なぜヴォルムスやインゲルハイムが首都にならなかったかは不明。 |
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▲全面ステンドグラスで覆われている |
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▲カール大帝の聖遺物箱 銀製鍍金で、145の七宝焼きと約400個の宝石で飾られている。1215年完成。ホーエンシュタウフエン朝ノフリードリッヒ二世がカール大帝の遺骨をこれに移し変えた。 |
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▲カール大帝の王冠 有名な胸像はどこかに貸し出されたのは見ることが出来なかった(宝物館) |
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▲宮廷礼拝堂(785年着工805年完成) 八角形の中心部と十六角形の周廊からなる集中式と呼ばれる空間は、イタリアのラベンナにあるサン・ビターレ聖堂などを参考としている。ドームと周廊の直径は32あり、ヨハネ黙示録の「長さと幅と高さが同じ」と記された天井の聖都エルサレムを思わせる均衡美を持つ空間だ。シャンデリアはフリードリッヒ1世赤髯王が1165年の聖列を記念して奉納した。二階にある柱はローマやラヴェンナから運ばれたもの。 |
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▲天蓋のモザイク 32mの高さにある円蓋を飾るモザイクは19世紀のイタリアのモザイク師アントニオ・サルヴィアーティの作。 |
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▲入り口入ってすぐの天井にあるモザイク画 |
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▲複雑なモザイク |
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▲天井のモザイク |
▲大理石の床 |
▲司教のお説教 |
▲内陣部分はゴシック時代 |
▲ステンドグラスを通して光の洪水だ(パリのサント・シャペルを参考にした) |
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