マインツ | |
マインツはライン地方を観光するのに便利な場所である。その理由を列記すると @市内にはロマネスク様式の大聖堂がある。かつて大司教がいてドイツ7選帝候の一人であった Aグーテンベルク博物館がある。グーテンベルクによる活字印刷はメディア革命を起こした。 Bライン下りの基点になる。遠くはケルンまででもよし。途中のコブレンツ(トリーへの入り口)迄でも十分。 C付近にあるエーベルバッハ修道院に行くのに便利。帰りにエルトヴィレからマインツまで約40分くらいライン下りを楽しんだ。なお、修道院の近くのブドウ畑の中にワインセラーがあり、景色を眺めながらのワインは美味かった。 |
|
▲夕日を浴びるマインツ大聖堂(大聖堂西側より) |
|
▲ドーム東側より |
▲マインツ大聖堂とグーテンベルク像 |
▲広場から大聖堂を望む |
▲広場に面したカフェーなど |
▲ロマネスク様式の天井 |
▲小さなステンドグラス |
▲回廊 |
▲柱の一部にはかわいい彫刻が |
▲グーテンベルク博物館入り口 |
▲博物館前の本のモニュメント |
▲グーテンベルクの42行の聖書(売店で15ユーロで購入) 「キリスト・イエスを通してあなた方を永遠の栄光へ導いて下さった神ご自身が、暫らくの間苦しんだあなた方を完全な者として、強め、力づけ、揺らぐことないようにしてくださいます。力が世々限りなく神にありますように、アーメン。私は忠実な兄弟と認めているシルワノによって、あなた方にこのように短く手紙を書き、忠告をし、これこそ神のまことの恵みであることを証しました。この恵みにしっかり踏みとどまりなさい。ともに選ばれて、バビロンにいる人々と、私の子マルコがよろしくと言っています。愛の口づけによって、互いに挨拶を交わしなさい。キリストと結ばれているあなた方一同に平和があるように。」 私の知人によると、上記コピーはペテロの手紙第一(第5章第10節)とのこと 備考)冒頭の9ページは40行、10ページ目は41行、以後42行よりなる |
|
グーテンベルクの聖書印刷について 1、時代背景 @マインツ地方には修道院、教会が多数あり需要があった Aヨーロッパ文字はアルファーベットによる26字のため。漢字では字数が多くて無理。 B紙の生産(中国の蔡倫が紀元105年に発明し、751年にタラス川の戦いで中国の技術がサラセンの捕虜になり、製紙方法がサラセンに伝わった。しかしその技術は秘密とされ。西欧に伝わったのは1200年ころである) 2、技術的革新 @交換可能な金属活字。鉛:鈴:アンチモン=85:5:15 A亜麻仁油と煤によるインクの利用 Bブドウ搾り機にヒントを得たプレス機の利用 3、後世への影響 宗教改革、情報革命 |
|
ルターによる95か条の論題と聖書のドイツ語訳 教皇レオ10世は(在位1513〜1521年)は、聖ピエトロ大聖堂の改築資金を捻出するために、ドイツで贖宥状(しょくゆうじょう)または免罪符を売り出した。これは金さえ出せば罪が許されることになり、ルターは1517年ヴェッチンベル城教会の扉に「95か条の論題」を貼り付けた。その内容の主旨は @人は信仰によってのみ救われる Aキリスト教信仰のよりどころは聖書のみ B教皇、司祭などの聖職者の特権を認めない 万人司祭 その結果教皇は異端的な諸説の撤回を求めて勅書をルターに送った。ルターはこれを公衆の場で焼却した。これにより1521年にルターは破門された。しかしルターは、ザクセン選帝候の城にかくまわれ聖書のドイツ語訳を完成した。 備考:ドイツの郵便制度 このドイツ語訳の聖書は印刷にかけられ、Thurn und Taxis社の郵便制度によりヨーロッパ中に一気に広がった。タクシスがハプスブルグ家とフッガー家の後ろ盾にドイツ圏内の郵便制度を全面的に受注した。 |
|
神聖ローマ皇帝のカール5世もルターに自説の撤回を求めたが、ルターはこれを拒否した。そのためルター派とカール5世の間で「ドイツ農民戦争」(1524〜1525年)をはじめ戦争が続いた。1555年にようやく政治的決着が図られ「アウグスブルクの和議」が成立した。内容は諸侯はカトリック派とルター派を選択できる自由が与えられた。 | |
備考:高麗における印刷事情 @高麗の八万大蔵経 表裏にそれぞれ644字(14×24行)の漢字が刻まれた86600枚の版木。1236年から16年間かけて作られた。 A朝鮮における活字はグーテンベルクよりかなり早くから使用されていたようである。しかし実用として広く使われるようになったのは1446年世宗大王によって作られたハングル文字によってからである。ハングル文字は当初28文字からなっていた。現在は24文字(子音14文字と母音10文字ですべての音が表記できる、とのこと) このことはヨーロッパにてローマ字表記であるから、活字が広がったのと同じ原因である。 |
|
▲旧市街のキルシュガルデン 第二次世界大戦でこの地区だけが焼け残った。1450年ころの木組みの家並み。 |
|
▲オープンエアーのレストラン |
▲日没のライン川 |
総合TOP ヨーロッパ紀行TOP 日本庭園TOP |