神聖ローマ帝国の歴史 「神聖ローマ帝国」 菊地良生 講談社新書などを参考に皇帝列伝を作成した 「地上の夢 キリスト教帝国」 五十嵐修 講談社 カール大帝について |
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ドイツの歴史を皇帝列伝形式で記した。ヨーロッパの歴史は多国間戦争の歴史である。正義とか人道とかでは生き抜けない。ドイツ史を一読しただけなので、コメントするのも気が引けるが、概略次のように成るだろうか。 歴史のネジを巻いた駆動力 @ゲルマンの相続は男子均一相続のため、帝国は集中と分散の繰り返した。 A皇帝はローマ教皇と関わりを持ったために、ドイツの国力は常にイタリア政策に浪費された(イタリアもドイツに蹂躙されローマの統一に1500年を要した)。ドイツの諸侯は戦費を協力する代わりに独立性を高めた。そのためドイツ国家の統一は遅れてしまった。 B皇帝の選出を選帝候が行うようになった。諸侯の力が大きくなる。 Cカソリックとプロテスタントまたアリウス派とアタナシウス派、ギリシャ正教とカソリック教、ユダヤ教とキリスト教、キリスト教とイスラム教と常に宗教戦争があり己の正当性を主張した。宗教の違いについては厳密、厳格、狭隘である。宗教に寛容であるから大帝国になった例としては、アレクサンダー大王、ローマ帝国、モンゴル帝国など。 D国家が発生した瞬間から多国間外交は大前提である。政治的な国際感覚は否応なく練磨される。 Eアルファベットを使うヨーロッパ言語人はデジタル思考が発達した。26文字で全ての発音が出来、言葉が出来た。 その結果ドイツの特色は次のようになった @分裂国家のため地方の独自性、個人主義が発達した。 A各諸侯が戦い抜くためには、科学技術の発達を促した。 B最近になって価値観の相対性に気がついてきた。EUの統合はその際たるもの。 |
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紀元 | 国名 | 王朝 | 内容 | 背景・意味・影響 |
395 | ー | ー | ローマ帝国東西に分裂 | ー |
476 | ー | ー | 西ローマ帝国滅亡.。東ローマ帝国繁栄(西ローマ切り捨て) | ー |
481 | フランク王国 | メ ロ ヴ ィ ン グ朝 |
フランクのクローヴィスがランスで教皇ステフェヌスによりフランク王として戴冠(メロヴィング朝の始まり)。クローヴィスはローマ人の間で優勢であったアタナシウス派に改修した(他のゲルマン諸族はニケーアの公会議で異端とされたアリウス派)。クローヴィスの死後王国はゲルマンの習慣により4人の息子により分割された。 | ・ゲルマンの風習の男子均一相続 ・アタナシウス派に改宗することでローマとの関係が親密になる |
732 | ・ピピンの父カール・マルテルがメロヴィング朝時代の732年のツール・ポワティエの戦いでイスラムを破るなどの実績 | ー | ||
751 | カ ロ リ ン グ 朝 |
ピピン、ローマ教皇ザカリアスの口利きでフランク国王になる 「事ここにいたればそれも已むなし、王朝交代は神のみ心にかなうものだ」との言葉により、王朝交代の正当性を得た。見返り大きい |
・ランゴバルト討伐 ・中部イタリアの寄進(教皇領の起源) | |
800 | 西ローマ帝国 | ピピンの息子カールがローマ教皇レオ3世により「西ローマ皇帝」として戴冠。教皇が戴冠を行う根拠は偽書の「コンスタンティヌスの寄進状」による教皇による。カールの戴冠によりヨーロッパは安定し、ヨーロッパ文化圏が出現(ゲルマン・キリスト教・ローマ文化の融合) | ・教:教皇権の確立(東ローマに拮抗) ・皇:教会組織の利用 ・カロリングルネッサンス |
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814 | カール大帝没後、帝国は二分されたが次男カールマン夭折により長男のルートヴィッヒ敬虔王がランスで教皇ステファヌス3世より戴冠。 | ランス戴冠はフランスがフランク王国の本流の根拠 | ||
840 | ルートビッヒ敬虔王没。成人に達した息子3人で骨肉相食む戦争 | |||
843 | ヴェルダン条約によりフランク王国3分割。 ・長子ロタール:皇帝称号とロートリンゲン(中部フランク) ・三子ルートヴィッヒ2世:ライン以東(東フランク) ・四子カール:ライン以西(西フランク) |
ゲルマンの風習の男子均一相続 | ||
870 | メルセン条約により中部フランク王国のロートリンゲンを東西フランク王国で再分割 | ー | ||
875 | 中部フランク王国はロタール1世の息子、ルートヴィッヒ2世の後に断絶(中部フランク王国のカロリング家断絶) | ー | ||
884 | 西フランクはカルロマンに死後事実上断絶。実権はノルマン人のパリ包囲を戦ったウード伯に移り、後にカペー王朝になった。 | ー | ||
911 | 東フランクはルートヴィッヒ2世の曾孫のルートヴィッヒ4世で断絶。東フランクの貴族はフランケン公コンラート1世を国王に選出。しかしザクセン公は従わす、分離独立を画策。 | ー | ||
919 |
帝国 | オットー朝 | ・コンラート1世はザクセン人のハインリッヒ1世を後継者氏名 ・ハインリッヒ1世はスラブ、マジャール、デーン人を撃破 |
オットー朝 (919〜1024年) |
962 | オットー1世(大帝)、ローマ教皇よりローマ皇帝として戴冠。皇帝アウグストウスと名乗ったのみ。ドイツ、イタリアの国王だけではローマ帝国とは名乗れなかった(フランス国王になっていない)。 ・親族重用し、一族を国内要所に派遣したが反乱相次ぎ失敗 ・そこで独身制度の聖職者は世襲がないため教会組織の利用。いわゆる「帝国教会政策」により国内の諸部族を管理した ・イタリア制圧:中部フランク・カロリング家が断絶後ベレンガリオ2世が教皇領を蚕食した。これに対して教皇ヨハネス12世はオットーに支援要請。オットーは直ちにイタリア遠征、臣従させる。(961) ・マジャール制圧:教皇とベンガリオ2世はマジャール人をそそのかすがオットーは撃退。ヨハネス12世教皇廃位。 |
@オットーの特許状 (教皇選出には皇帝の承認が必要) Aローマ皇帝になったため、常にローマを目指した。遠征費捻出のため諸侯に領地購入の利権与える(相互相続契約)ことになる。 |
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1024 | ローマ帝国 | ザリエリ朝 |
・ザクセン朝第4代のドイツ王、聖ハインリッヒ2世嫡子なく死亡。 ・ドイツ諸侯はオットー大帝の娘ロイドがルトの曾孫にあたるフランケン公コンラート2世をドイツ王に選出した。 ・コンラート2世、ハインリッヒ3世、ハインリッヒ4世、ハインリッヒ5世 |
ザリエル朝 (フランケン家) (1024〜1125年) |
1034 | ・「ローマ帝国」がコンラート2世のとき公文書に登場。背景はドイツ、イタリアはもとより、旧中部フランク王国のブルゴーニュ王国を支配するようになったため。 ・コンラート2世はオットー大帝の「帝国教会政策」を引き継いだ。 |
諸侯を抑え、王権は強化された | ||
1039 〜 1046 |
ローマ王国 | ・ハインリッヒ3世7年間皇帝になれなかった(〜1046年)。皇帝がいないため「ローマ帝国」は「ローマ王国」と言われた。故にハインリッヒ3世は自ら「ローマ王」と名乗った。 ・ハインリッヒ3世はドイツ国内の権力基盤を磐石にし、ボヘミア、ハンガリーを臣従させた。 |
以後神聖ローマ皇帝継承者はローマ王と名乗る慣わしとなった | |
1077 | ローマ帝国 | カノッサの屈辱:ローマ教皇グレゴリウス7世がハインリッヒ4世を破門し。ハインリッヒ4世がカノッサ城で教皇に謝罪し許しを得た。 1、背景 @教皇庁の乱脈 Aトスカーナ伯の不穏な動き B「クリュニュー改革運動」をハインリッヒ3世は支援→薮蛇になる Cハインリッヒ4世が6歳のとき父ハインリッヒ3世急死(1056年) →教皇庁の皇帝支配からの脱却 Dグレゴリウス7世、ゴットフレード、ドイツ諸侯、大司教などは幼少のハインリッヒから皇帝権を取り上げた。→皇帝権の失墜 2、経過 @1075年1月8日教皇はハインリッヒ4世に服従するよう書簡送る Aハインリッヒ1月24日ヴォルムスにドイツの司教24人を招集し、グレゴリウス7世の教皇廃位を決議させる(教皇とマチルダのスキャンダルを理由に) B1075年2月22日グレゴリウス7世、ハインリッヒ4世を破門 Cハインリッヒは12月中旬、妻ベルタと3歳の息子コンラートを連れて、アルプスを越え、カノッサ城の門に立ち、教皇に許しを乞う。許しが出るまで3日間ハインリッヒ4世は裸足で雪の中に立ちつづけた。 3、その後 @ハインリッヒは皇帝権を主張、教皇グレゴリウス7世は再び「破門」した。これに対してハインリッヒはドイツの司教をけしかけ教皇を廃位、し新たにクレメンス3世を擁した。グレゴリウスは4年以上篭城し、挙句の果てにはノルマン軍をローマに引き込んだ。しかしノルマン人は略奪の限りを尽くした。グレゴリウス7世はローマ市民の信頼を失い、サレルノに亡命し同地で客死した(1085年) A長男コンラートの謀反し、父を幽閉。ヴェルフェン家により脱出。 B次子ハインリッヒ5世をつけたが、またしても息子の謀反に遭う。 C軟禁を逃れたハインリッヒ4世であるが、過酷な運命に絶望し1106年に急死した(56才)。 D1122年ハインリッヒ5世と教皇カリクトウス2世の間で「ヴォルムス協約」が結ばれた。聖職者の叙任権は教皇にあり、との内容。 |
・聖職者叙任権闘争→教皇の完膚なき勝利 皇帝権の失墜 父が6歳のときから教皇権に対峙して約70年間になるが、愚息によりその努力が水泡に帰した |
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1138 | ホーエンシュタウフェン朝 | コンラート3世が皇帝につく(〜52年) 経過:ハインリッヒ4世が孤軍奮闘の戦いをしているとき、彼の数少ない忠臣がシュタウフェン家であった。彼は娘のアグネスをフリードリッヒの息子嫁がせた。一方ハインリッヒ5せいは「父殺し」の大罪により、ついに子宝に恵まれなかった。これでザリエリ朝は終わった。諸侯は集まって次期皇帝を曲折の末シュタウフェン家のコンラートに決めた。 |
ホーエンシュタウフェン朝(1138〜1254) | |
1152 | フリードリッヒ1世(赤髯王〜90年)は真の世界帝国を求めた。 そのため6回に及ぶイタリア遠征を行った。 @皇帝党(ギベリン派)対教皇党(ゲルフ派) 皇帝選挙で負けたヴェルフェン家は教皇を中心とする反皇帝勢力と手を結んだ。両派の対立はイタリアでの分裂を倍加させた。 Aロンバルディア都市同盟との争い。 当初はミラノなどを破ったが、1180年レニヤーノの戦いでロンバルディア同盟に敗れる。 Bハインリッヒ獅子公の帝国追放をはじめ諸侯の削減を行い、諸侯を震え上がらせた。 |
皇帝権の復権 | ||
1155 | 皇帝戴冠の際、先例に倣い教皇ハドリアヌス4世の馬の鐙を支えた。これにより教皇はますます強圧的態度を見せ、帝国は教皇の封土であると宣言した。 これに対してフリードリッヒ1世は「両剣論」を根拠に、皇帝は神に直接世俗の統治を委託されて折、帝国は、神に直接聖別されている、とした |
「両剣論」 | ||
1157 | 神聖帝国 | ミラノ討伐の召集状には「神聖帝国」の名で行われた。この神聖なという形容詞をいただくのは俗権が教皇の神権政治を断固拒否する決意表明である。 | 神聖帝国 | |
1190 | 第三回十字軍を率いて、エルサレムに向かう途中で沐浴中に命を落とした。神に聖別された「神聖帝国」の皇帝たるもの聖地を奪還して始めて真の皇帝であると信じていた。長子ハインリッヒ6世が新皇帝に | 第三回十字軍 | ||
1215 〜 1250 |
早熟の天才フリードリッヒ2世(1215〜50年) フリードリッヒが3歳のとき父帝ハインリッヒ6世がシチリア出兵中に急死(32歳)。これよりフリードリッヒのイバラの道が始まる。父帝の弟フィリップ、シチリアの家士マウグヴァルト、教皇イノケンティウス3世が己の有利になるように急奪戦が始まった。結局母コンスタンツァの生まれたナポリ・シチリア両王国で教皇が養育することになった。当時のシチリアはイスラム・ビザンツ、ラテンの文化が花開いていた。幼いシチリア王はラテン語はもちろん6ヶ国語を操り、あらゆる知識を吸収した。学んだことはあらゆる価値観の相対化であった。その後紆余曲折の末1215年、ドイツ国王になった。若干二十歳である。 @シチリア王国の再建 無政府状態であったシチリアを再建した。35年間の王位在任中、ドイツにいたのはたった8年であった。教皇はドイツとシチリアに挟まれてしまうため、シチリア再建には反対した。 A十字軍 再三の出兵をはぐらかしていたが、1228年、4万のドイツ兵とともに遠征に出かけたが、途中疫病が流行ったため、パレスチナの地を踏まずに帰還した。教皇は直ちにフリードリッヒを破門した。翌年改めて遠征し、一戦も交えずにエルサレムに入場し、そこでエルサレム王としての戴冠式を挙げた。このような離れ業が出来たのは、フリードリッヒ2世と当時のエルサレムを治めていた、アイユーブ朝のスルタン、アル=カミールとの相互信頼に基づいた交渉があった。アル=カミールはフリードリッヒがアラビヤ語を完全に理解し、イスラム文化に敬意を示し、、ローマ教皇を馬鹿にするのをはばからない男であることを知った。こうしてスルタンと皇帝はアリストテレスの論理学、霊魂の不滅、宇宙の起源について互いの学識を披瀝する取り交わした関係になっていた。 B世界観 新たに得た自分の王国をキリスト教一色に染め上げようとする気は毛頭無かった。彼は諸宗教の共存、多元的価値の共存を許した。宗教的統一はいらない、政治的統一があればよかったのだ。どうしても同化できないものは「外部」のまま「内部」に取り込めばよい。このことはアレキサンダー大王、古代ローマ帝国がそうであった。 C最後の」皇帝らしい皇帝」 オットー大帝が皇帝になってから三代の王朝が入れ替わった。しかしいずれの王朝もイタリア政策には腐心した。ローマ帝国の復活を目指すためには、イタリアのローマを首都としたヨーロッパ帝国を作らなければならない、との強迫観念にさいなまれる。そのためには本拠地のドイツのコントロールが疎かになる。ドイツは常に抗争状態で分裂国家が固定化することになる。大王の誉れ高きフリードリッヒ2世でも大司教、諸侯に大幅な権益を与えてしまった。 |
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1220 | 長男ハインリッヒをドイツ王に即位させたとき聖職者と妥協を図った 「聖界諸侯との協約」ドイツ司教の教会領支配の特権を認め、諸侯とみなした |
ドイツが無数の領邦国家に分裂する萌芽になる |
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1231 | ドイツ諸侯に大幅な特権を与えた 「諸侯の利益のための協定」 |
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1250 | 神聖ローマ帝国 | 大空位 | 大空位時代(1250〜73年) | ー |
1254 | ホラント伯ウイレムにより始めて「神聖ローマ帝国」の名が登場 神に直接聖別された神聖なローマ帝国 |
実体が無いからこそ生まれた名称 | ||
1273 | ハプスブルク | ルドルフ1世(ハプスブルク家)が選出される 皇帝不在でドイツ国は千々に乱れた。そのうちに実力をつけてきたフランス王のフィリップ3世が皇帝として名乗りをあげてきた。これに対して教皇グレゴリウス10世は早急に皇帝を選出しなければ自分が選出すると、諸侯を恫喝してきた。マインツ大司教をはじめ7人の選帝候により一番無難な男としてスイスの小伯爵のルドルフを選んだ。 |
世襲選挙王制を純粋な選挙王制に変えた | |
1278 | 選帝候の一人であるボヘミア王オカタルは新工程への臣従を拒否した。討伐に向かったルドルフは大方の予想にに反してルドルフが勝利した。 | 伏兵起用の奇襲による | ||
1313 | ー | 王位は巡る ルドルフの死後はナッサウ家のアドルフを皇帝にしたが、全くの愚鈍のため廃位し、またもやハプスブルク家のアルプレヒト1世が皇帝になった。しかしアルブレヒトは末弟の息子パリチーダに暗殺されてしまった。直ちに選帝公会議が開かれ反ハプスブルクの旗手ハインリッヒ7世(ルクセンブルク家)を選んだ。しかしハインリッヒはローマで戴冠すべくローマに赴いたが戴冠できず、その後不慮の死を遂げた。バイエルン公ルートヴィッヒ4世は1328年にローマで教皇からではなく市民の代表からという形で戴冠した。教皇はフランスの意を受けてルートヴィッヒ4世を破門した。その上でかつて自分が養育を受け持ったことがあるルクセンブルク家のカール4世を対立王に仕立てた。1346年に国王に選出された。 |
アヴィニョン捕囚 (1309〜77年) フランスはドイツに対抗してローマ皇帝になるために教皇庁に進出した。教皇はルートヴィッヒ4世の戴冠を拒否。 |
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1347 | ルクセンブルク朝 | カール4世によりルクセンブルグ朝(1347〜1437)。1355皇帝戴冠 | ー | |
1356 | カール4世は21か条の文章に黄金の印章を押した「金印勅書」 @皇帝選挙の選帝候を7人に決める ・マインツ・トリアー・ケルン大司教、 ・プファルツ・ザクセン・ブランデンブルク・ボヘミア世俗諸侯 A選挙は単純過半数にて行う B選帝候は諸侯の最上位を占め、領内の裁判権、貨幣鋳造権を有す C選挙結果は教皇の承認を必要としない |
皇帝権大幅縮小 帝国の中に7選帝王国が出来たようなもの。これによりドイツは諸侯国連邦王国になった | ||
1438 | 長子ヴェルツエン、次男ジキスムントは皇帝位を世襲したが、ジキスムントは嫡子を残さずこの世を去った。すなわちルクセンブルク家の断絶だ。ギルムントは領地ボヘミヤで宗教改革の先駆者して未曾有の混乱を招いた | 宗教改革の先駆者ヤン・フスを焚刑 | ||
1438 | ハプスブルグ朝 | 次の皇帝はジキストムントの娘婿であるハプスブルク家のアルプレヒト2世が選ばれた。彼は同時にルクセンブルク家所領のボヘミアとハンガリーを手に入れた。しかしドイツ王の戴冠式も済まさぬうちに在位1年余りで赤痢で死んでしまった(1439)。 | ー | |
1452 | アルプレヒトの従兄弟のフリードリッヒ3世がハプスブルク家の宗家になり、ローマでの最後の戴冠する。 備考)フリードリッヒによる「ドイツ国民の」に関して @1442年の法律17条に「神聖ローマ帝国とドイツ国民」 A1471年の帝国公告に「神聖ローマ帝国と威厳あるドイツ国民」 B1486年平和令に「ドイツ国民のすべてのローマ帝国」 |
ドイツ国民が神聖ローマ帝国を支配しているのではなく、神聖ローマ帝国の版図はドイツに限られている、との意味 | ||
1453 | 東ローマ帝国(ビザンチン帝国)オスマントルコによって陥落 | |||
1508 | フリードリッヒの息子マクシミリアンは、教皇による戴冠を受けぬまま自らマクシミリアン1世と称した。 | |||
1512 | ドイツ国民の神聖ローマ帝国 | マクシミリアンが「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」を使う 帝国の版図はもはやドイツのみということ |
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ー | ハプスブルク家(マクシミリアン)の婚姻政策 @マクシミリアンはブルゴーニュ公国のマリーと結婚 A長男フィリップ美公がスペイン王女ファナと結婚 →ハプスブルク家に2男(カール5世、フェルディナント1世)4女(マリーなど)をのこす B長女マルガレーテがスペイン皇太子ファンと結婚 →寡婦となリ、スペインはハプスブルグ家のものになる C孫フェルディナントがハンガリー王女アンナと結婚 D孫マリーがハンガリー皇太子ラヨッシュと結婚 たまゆらの世界帝国 カール5世は世界帝国の皇帝になったが、宗教改革、農民戦争、シュマルカルデン戦争、モーリッツの裏切りなど動乱の中、皇帝を弟のフェルディナンドに、スペインを息子に渡した(1556年)。 |
婚姻政策により得た領地 ・ブルゴーニュ ・スペイン ・ハンガリー ・ボヘミア |
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1517 | ルターの[95か条の論題]発表による宗教改革 教皇レオ10世は(在位1513〜1521年)は、聖ピエトロ大聖堂の改築資金を捻出するために、ドイツで贖宥状(しょくゆうじょう)または免罪符を売り出した。これは金さえ出せば罪が許されることになり、ルターは1517年ヴェッチンベル城教会の扉に「95か条の論題」を貼り付けた。その内容の主旨は @人は信仰によってのみ救われる Aキリスト教信仰のよりどころは聖書のみ B教皇、司祭などの聖職者の特権を認めない 万人司祭 その結果教皇は異端的な諸説の撤回を求めて勅書をルターに送った。ルターはこれを公衆の場で焼却した。これによりルターは1521年1月3日破門された。 |
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1521 | カール5世によるルターの破門 3月に神聖ローマ皇帝カール5世はルターに召喚状を送り、4月ヴォルムスの帝国議会に呼びつけ、ルターの著書に書いた内容を取り消すように迫った。このときルターは「聖書と明白な理性に基づいて説得されない限り、自説を取り消すことが出来ない。」と答えた。これで皇帝からも破門された。 ルターによる聖書のドイツ語訳 ヴォルムスからの帰途、ドレスデンにいるザクセン選帝候フリードリッヒ賢王によってアイゼナッハ郊外のヴァルトブルク城にかくまわれた。ルターはここに10ヶ月ほど滞在したが、僅か3ヶ月でドイツ語による新約聖書の翻訳を成し遂げた。聖書のはラテン語でかかれているため、庶民は司祭の言うことを信じるしかなかった。しかしルターは原典のギリシャ語から直接ドイツ語に翻訳した。そのため大衆は聖書に書いてあることを直接知ることになった。おりしもグーテンベルクによる活版印刷機の発明により、ルターの新約聖書は瞬く間にドイツ中に広まり宗教改革の火は燎原のごとく燃え盛った。 備考:ドイツの郵便制度 このドイツ語訳の聖書は印刷にかけられ、Thurn und Taxis社の郵便制度によりヨーロッパ中に一気に広がった。タクシスがハプスブルグ家とフッガー家の後ろ盾にドイツ圏内の郵便制度を全面的に受注した。 |
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1629 | 帝国議会でルター派の権利が大きく制限されたことに対して、5人のルター派諸侯と14の都市が抗議書を提出した。このことからルター派をプロテスト(抗議する人)と呼ぶようになった。 | |||
1555 | 「アウスブルクの宗教和議」で宗派の選択権は領主にあることが認められた。(個人の信仰の自由が認められたのではない)。 | ・ルター派公認 ・領主の選択権 |
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1618 〜1648 |
30年戦争は当初はドイツ国内の宗教戦争であったが、ヨーロッパ中を巻き込んだ国際紛争になり、戦場となったドイツは疲弊し、国際社会から脱落した。 | ー | ||
1648 | ウエストファラ条約 帝国内のすべての諸侯の主権確立 | ドイツ分解 | ||
1688 | プファルツ継承戦争(1688〜97年)にフランス軍が進入しシュパイヤー、ヴォルムス、マインツ、ハイデルベルクなどの都市が略奪、破壊を受けた。 | ー | ||
1806 | ー | ー | フランツ2世により神聖ローマ帝国の解散 | ー |
1813 | ー | ー | 対ナポレオン解放戦争(〜'15年)プロイセンとロシアの同盟でナポレオン撃破 | ー |
1815 | ー | ー | ドイツ連邦結成(〜'66年) | ー |
1862 | ー | ー | プロイセン首相にビスマルクが就任 | ー |
1871 〜 1918 |
ドイツ帝国 | ホーエンツォレルン朝 | ドイツ帝国成立(第二ドイツ帝国) プロイセンを中心とする22連邦、3自由都市からなる(ただしオーストリアを除く)。プロイセンがドイツ帝国皇帝が世襲。 初代皇帝ヴィルヘルム1世:普墺戦争(1866年)、普仏戦争(1870年)を勝った。その後フランスの復習を避けるためにビスマルクとともにロシアオーストリア、ハンガリー、イタリアと同盟を結んだ.イギリスとも敵対関係でないようにした。その結果フランスは孤立した。 第二代皇帝フリードリッヒ3世:父親のヴィルヘルム1世の治世が長かったため僅か一年の皇帝であった。 第三代皇帝:ヴィルヘルム2世:ヴィルヘルム2世はビスマルクと対立し1890年にビスマルクを引退させる。彼は親政政治を行いドイツの拡張政策をとった。その結果イギリス帝国、ロシア帝国と対立し第一次世界大戦に突入した。 |
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1933 〜1945 |
ー | ー | ヒットラーにより「第三ドイツ帝国」成立 | ー |
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