シュパイアー大聖堂 | |
ヨーロッパで最大のロマネスク教会は全長133m、翼廊の長さ50mにも及ぶ。 シュパイアーの歴史 @紀元前71年ころケルト人が住んでいたが、ゲルマン人が征服、しかし紀元前58年にはゲルマン人をシーザーが征服した。 A343年には司教の存在が記録されている。しかし406年にローマ軍撤退。ゲルマン民族の大移動で混乱の渦に。 B838年カール大帝の長男ルートヴィッヒ敬虔王が第一回帝国儀外を開催 Cザリア家出身のコンラート二世が1030年にドーム建設開始。息子のハインリッヒ三世建設続行。しかし地盤が悪く何回も改修したが、ハインリッヒ四世が大改修を行い1061年に献上堂され現在の形になった。例えば身廊の天井は木材による水平梁であったが、石材によるヴォールト構造にした。ヴォールト天井はドイツで初めてであり、その後の教会建築に大きな影響を与えた。 D1529年の帝国議会でルター派の権利が大きく制限されたことに対して、5人のルター派諸侯と14の都市が抗議書を提出した。このことからルター派をプロテスト(抗議する人)と呼ぶようになった。 Eプファルツ継承戦争(1688〜97年)にフランス軍が進入しシュパイヤー、ヴォルムス、マインツ、ハイデルベルクなどの都市が略奪、破壊を受けた。このため大聖堂西側部分はその後改修した。 |
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見所 @ドイツ教会建築の特徴である「西構え」と「二重内陣式」である Aボールト構造に改修された身廊天井(以後ドイツロマネスク式教会の見本となる) B水平性と垂直性(柱や塔の垂直性、柱中央に付いている環状の突起) Cギャラリーによるリズム D大きくて美しいクリプトには四人の皇帝、三人の皇后、四人の国王、五人の司教が眠っている |
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備考 @カノッサの屈辱 A第一回十字軍1096年 |
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▲大聖堂を南西方向から ドイツ教会建築の特徴である「西構え」と「二重内陣式」である |
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▲マクシミリアン大通りの正面に大聖堂が立つ |
▲大聖堂の西側はフランス軍の破壊したので、ノイマンによる修復が行われたが、予算がなくなり応急処置で終わってしまった(1861年)。 |
▲大聖堂の北東より |
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▲東側の公園より |
▲祭室軒下のギャラリーは全体にリズムを与える |
▲ハインリッヒ四世により平天井からボールと構造に改修した。これにより垂直性が増した。一方全長130mもの奥行きを強調するように、横断アーチにつながる半円柱の中央には環状の柱頭を付け、水平性を強調している。 |
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▲明るくて大きな窓は横断アーチと交差ボールとにより実現した。 |
▲美しいクリプトには歴代の皇帝が眠っている 高さは7mのボールがスペインのメスキータのように連なっている。 |
▲ライン川に面した大聖堂。ライン川がこの街に富をもたらしている |
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▲大聖堂横の広場ではマリンバの柔らかな音が響く |
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▲聖堂近くのホテルdomfof e-mail:rezeption@domhof.de ▲サンチャゴ像と (聖堂の見える部屋は24号室) |
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