ヴォルムス大聖堂  正式には聖ペ−ター教会
栄光の歴史
  ライン川に沿ったヴォルムスはシュパイアー、マインツ、フランクフルト、ケルンなどとほぼ同じような発展を遂げている。いずれもライン川による交易、農業の便利さとともに、先住ケルト人をローマ人が征服する。しかしゲルマン人の南下に伴いローマの最前線基地になる。しかし4世紀になるとローマは撤退しゲルマン人の世界になる。しかしキリスト教はこのころ各司教区が作られていたので、行政機関がないときなので司教座のある教会が中心となって街は発展した。中世になると神聖ローマ帝国の主要都市になったり、大司教が皇帝の選帝候になったりして世俗権力も保持した。以下にヴォルムスを中心として歴史を見る。
@紀元前からケルト人の集落があった。
Aローマ人が進出しこのあたりを「ヴォンガウ」と呼んでいた。
B5世紀前半ゲルマン大移動後、ブルグント王国の首都になったがフン族によって滅ぼされた。
C7世紀はじめ、ダゴベルト1世が今の大聖堂の位置にあったローマ時代のフォーラムの上にバシリカ式聖堂を立てた。
D11世紀ブルックハルトが大司教のとき、現在とほぼ同規模の教会に作り変えた。東西に祭室を持ち円筒形の側塔を持つなど。
E1122年にドイツ皇帝ハインリッヒ4世とローマ教皇グレゴリウス7世の叙任権闘争が「ヴォルムスの協約」で決着した。教皇権の勝利。
Fこの頃から50年に及ぶ大規模の改修が行われ、1181年に現在の教会が完成。このとき天井をシュパイアーに倣って平天井を半円筒状の交差ボールとにした。
G1517年10月31日ルターはヴィッテンベルク城教会の扉にいわゆる「95か条の提題」を貼りだした。
H1521年1月3日教皇レオ10世はルターを破門した。
I1521年3月に神聖ローマ皇帝カール5世はルターに召喚状を送り、4月ヴォルムスの帝国議会に呼びつけ、ルターの著書に書いた内容を取り消すように迫った。このときルターは「聖書と明白な理性に基づいて説得されない限り、自説を取り消すことが出来ない。」と答えた。これで皇帝からも破門された。
Jヴォルムスからの帰途、ドレスデンにいるザクセン選帝候フリードリッヒ賢王によってアイゼナッハ郊外のヴァルトブルク城にかくまわれた。ルターはここに10ヶ月ほど滞在したが、僅か3ヶ月でドイツ語による新約聖書の翻訳を成し遂げた。おりしもグーテンベルクによる活版印刷機の発明により、ルターの新約聖書は瞬く間にドイツ中に広まり宗教改革の火は燎原のごとく燃え盛った。
K改革運動は1522年の騎士戦争、1524年の農民戦争を引き起こす。
L1529年の帝国議会でルター派の権利が大きく制限されたことに対して、5人のルター派諸侯と14の都市が抗議書を提出した。このことからルター派をプロテスト(抗議する人)と呼ぶようになった。
M1555年アウスブルクの宗教和議で宗派の選択権は領主にあることが認められた。(個人の信仰の自由が認められたのではない)。
N1618〜1648年の30年戦争は当初はドイツ国内の宗教戦争であったが、ヨーロッパ中を巻き込んだ国際紛争になり、戦場となったドイツは疲弊し、国際社会から脱落した。
Oプファルツ継承戦争(1688〜97年)にフランス軍が進入しシュパイヤー、ヴォルムス、マインツ、ハイデルベルクなどの都市が略奪、破壊を受けた。
▲全景(大聖堂の北側に面したホテルより撮影) ドイツロマネスク様式の特徴の二重内陣式だ
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▲ライトアップされた大聖堂
 
▲西側の塔が修理中           ▲珍しいバラ窓
 
▲東側祭室部分           ▲東側祭室(写真は逆光であるが午前中に撮影したほうが良い)

▲シナゴーガ像(ユダヤ教敗北の象徴)
目隠しされた象で表現されているのはユダヤ教が真実を見えていない、ことを示すため       

▲入り口は南側にある(東西に祭室があるため)

 
▲横断アーチ(僅かに尖塔型)と交差ボールトに改修された      ▲西側祭室のバラ窓

▲マグヌス教会(大聖堂のに並側)

▲旧アンドレアス教会の回廊(現美術館)

▲マルティン・ルター像、他にフス、サヴォナローラなど(ルターは1521年、神聖ローマ皇帝カール5世にヴォルムス帝国議会に呼び出され自説の撤回を求められたが断固拒否した)

▲ユダヤ人墓地(ヨーロッパ最古の部類に入る)



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