イギリスにおけるゲルマン人の拡大とフランスとの果てしない抗争
イギリスの歴史の一部分を纏めて箇条書きにする
@とにかく人種が入り乱れて複雑だ。イべリア人のいるところへ、ヨーロッパ大陸からケルト人が流入、その後支配者としてローマ人、更にゲルマン人の一派であるアングロ=サクソン人が王国を建設。その後やはりゲルマン人の一派であるノルマン人がフランス経由で侵入し、またもや征服王朝を建設する。
A上記のようにフランスに進出したノルマンディー公がイギリスでノルマン王朝を建てたのだから、英仏関係は同じ血族が両国にいるので、大変複雑になる。イギリスは一時期フランスの約半分を占領していた。これをジャンヌダルクにより救国された。この二カ国は永遠のライバル、というべきか。常に小国イギリスが先んじられ、ナポレオンによるヨーロッパ帝国の夢も潰え去った。
Bイギリスの三角貿易(奴隷貿易)は別項に記した。大航海時代の成果を横取りし植民地帝国になった。
Cこの他、イギリスは議会制民主主義を成立させ、産業革命を成し遂げ、ニュートンに代表される近代科学を生み出した強力な国民だ。これらについては改めて考察したい。
現在のイギリス 現在のフランス ゲルマン故郷
(バルト沿岸)
ロシア、
イタリア
BC3000年頃イベリア人がストーンヘンジなどを遺した。そこへBC2400年頃ビーカー人が来てこれを駆逐または同化した。 - - -
ケルト人は紀元前7または6世紀頃から紀元前2、1世紀頃頃までにヨーロッパから移動してきた。上記ストーンヘンジを破壊した。 - - -
紀元前後からローマ人の侵略を受けAD410年ホノリウスによるブリタニア放棄までローマの支配を受けた。117年にハドリアヌスによるスコットランドとの境界にある「ハドリアヌス長城」は有名。なおブリタニアのケルト人をブリトン人という。 - - -
ローマ人がいなくなると5世紀中ごろからアングロ=サクソン人による征服王朝(七王国)成立。なおアングロ=サクソン人がケルト人を「外国人」の意味のWealasと呼びこれが訛ってWelsh(ウェールズ人)の呼称が始まった。 - アングロ=サクソン、イングランド征服開始 -
七王国は相互抗争の末ウェセックス王エクバートがイングランド王になる(829年) - - -
ノルマン人のデーン人がイングランド侵略 ノルマン人885年から約700隻3万人でパリを包囲 ノルマン人(バイキング)ヨーロッパ各地に移動 ノルマン人のルーシ族ロシアに王朝建てる(862)
エグバートの孫アルフレッド大王はイングランド王国(アングロ=サクソン人)再建 ロロ、セーヌ川の河口占領、シャルル3世キリスト教改宗を条件にノルマンディー領を与える
(911年)
- -
デンマーク王の第2子クヌートがイングランド王になりデーン王朝開く(1016〜1042年)、兄の死後ノルウェー、デンマーク王も兼ねる - - ノルマン人のロジェール1世シチリア征服(1061年)
その後アングロ=サクソン王朝復活したがイングランド王エドワード懺悔王が1066年亡くなリ、義弟のハロルドが即位すると、ノルマンディー公ウイリアムはエドワードの従兄弟の子として王位を要求。750隻の船に15000人の兵を乗せ、「へースティングの戦い」(1066年)大勝。「ノルマンの征服」
ノルマンディー公ウイリアム(ロロの5代目の子孫)が父の後を継ぐ(1035) - ロジェール2世両シチリア王国建国1130年
現在のイギリス 現在のフランス ゲルマン故郷
(バルト沿岸)
ロシア、
イタリア
ウイリアム1世は5年でイギリスを統一し、集権的封建制を導入、ノルマン人貴族を各地に封ずる。「ソールズベリーの誓い」(1086年) ウイリアム1世はフランス領においてはフランス王の臣下である - - -
ノルマン朝は4代目のスティーブンの死で断絶。フランスのアンジュー伯のアンリがヘンリ2世として即位。プラタジネット朝(1154〜1399)創設。ヘンリ2世はフランス領のアンジュー伯領を相続(1151)し、更にフランス王ルイ7世と離婚したエレオノールと結婚し、フランスのアキテーヌ公領を相続した。このため彼はイングランド・ノルマンディーのヨーロッパ最大の領土を支配 フィリップ2世王権を伸張。フランス内のイギリス領奪還を図リ、ヘンリ2世、リチャード1世、ジョン王と戦い1204年大半領土を回復した。 - -
ヘンリ2世の3男リチャード1世母からフランス領アキテーヌ公領を相続、父に2度反乱をし父の死後王になる。 - -
リチャード1世はフランス王フィリップ2世、ドイツ皇帝フリードリッヒ1世と第3回十字軍に出征するなど勇猛な武将として名をはせたが、フランス出兵時フィリップ2世との戦いで戦死(1199) - -
ヘンリ2世の末子ジョンは兄リチャード王の死後イギリス王位を継続し、フランスのフィリップ2世と戦ったがフランス領の多くを失った。彼はインケンティウス3世教皇と争い破門され、教皇の封建的臣下になった。また大陸のフィリップ2世との戦いで戦費に苦しんだ貴族の反乱を招き「マグナカルタ(大憲章)」に著名した(1215)。 - -
ジョン王の子のヘンリ3世はフランスから后を向かえフランス人を重用したリ、マグナカルタ無視したため貴族の不満を招き、貴族に捕らえられる。王太子エドワードに助けられる(後のエドワード1世)。オックスフォード条例を無視したためシモン=オ=モンフォールなどによる貴族が反乱し、騎士や都市の市民を入れた諮問議会を召集させられた(1265) ルイ9世はヘンリ3世とパリ条約を結び領土の回復をした
(1259)
- -
エドワード1世1295年模範議会(大貴族、高位聖職者、各州2人の騎士、そして各都市2人の市民で構成)を召集。その後の議会構成のモデルになる ルイ9世の孫のフィリップ4世は王権の拡大を図りヨーロッパで最初の国家統一をした - -
エドワード3世(位1272〜1307)時代に議会は上院(大貴族、高位聖職者)と下院(騎士と市民)に分かれ、課税には下院の承認が必要になり、議会は諮問から立法機関に発展した - -
フランドルをめぐる英仏の百年戦争(1339〜1453) - -
イギリスのノルマン朝・プランタジネット朝はいち早く集権的国家を築きフランス領内に広大な領地を持っていた。フランスはフィリップ2世からフィリップ4世の時代に中集権国家のなりフランス領内のイギリス領の大半を奪還した。
次にフィリップ4世はフランス国王の封建的臣下であるフランドル伯領を直接支配しようとした。しかしイギリスは羊毛の輸出先の権益を守ろうとした。
- -
- カペー朝断絶後フィリップ4世の孫のフィリップ6世が即位しヴァロア朝が成立した。彼はギュイエンヌがフランスの封建的臣下であることを理由にこの領地を没収した(1337)
- -
現在のイギリス 現在のフランス ゲルマン故郷
ロシアなど
これに対してエドワード3世は母イザベラがフィリップ4世の娘であることから、甥のフィリップ6世に王位継承権があるならば、孫のエドワード3世にも王位継承権があることを主張(1337年)。1339年イギリス軍はノルマンディーに上陸した - -
エドワード黒太子(エドワード3世の長男)の率いる長弓隊はフランス軍の重装騎兵の弩(いしゆみ)隊にクレーシーの戦いで完勝した(1346)。この戦いでイギリス軍は初めて大砲を使用した。翌年カレーを占領し大陸侵攻の足懸りとした。エドワードは1355年ポワティエの戦いでフランス王ジャン2世を捕虜とした。 ペストの大流行(1346〜50)でフランスの人口の1/3が死亡し、更にジャクリーの乱が起きた。
シャルル5世は占領された地域の大半を回復し1375年にはカレー・ボルドー・バイヨンヌを残すのみとなった。
- -
エドワード黒太子の子リチャード2世が即位したが、ランカスター家のヘンリに捕らえられ、暗殺されプランタジネット朝は断絶。ランカスター朝成立。 シャルル6世発狂後、叔父のブルゴーニュ公派と弟のオルレアン公派に対立、抗争 - -
ヘンリ5世、フランスの内乱に乗じてノルマンディーに出兵しアザンクールの戦い(1415)で大勝し、フランス王太子のシャルルの王位継承権を否認し、イギリス王太子ヘンリの王位継承権を認めさせた。 シャルル王太子はロワール川流域と南フランスを支配するのみ - -
1422年イギリス王ヘンリ6世はシャルル6世が死んだので英仏両王と称した。 - -
イギリスはフランスの分裂を見て、ロワール川以南への領土の拡大を試み、ブルゴーニュ公派と結びオルレアンを包囲した(1428) ジャンニュダルクがシャルル王太子の面会 - -
- ジャンヌダルク、オルレアンの包囲を破り(1429)ランスでシャルルの戴冠式を行いシャルル7世にした。しかしブルゴーニュ派に捉えられたときシャルル7世身代金を払わなかったため、ルーアンの宗教裁判で魔女とされ1431火刑された - -
百年戦争に敗れたイギリスはランカスター家(赤バラ)とヨーク家(白バラ)の両派に分かれて30年間(1455〜85)に及ぶばら戦争という内乱になった その後の戦いはフランスが圧倒的な勝利をし、1453年、百年戦争は終結した。シャルル7世の王権強化と中央集権。 - -
ランカスター家(赤) ヨーク家(白) - - -
1399〜1416 1461〜1485 - - -
ヘンリ4世勝つ リチャード2世負ける - - -
ヘンリ5世 - - - -
ヘンリ6世 リチャード戦死 - - -
- エドワード4世
(位1461〜1470)
ヘンリ=テューダー亡命 - - -
ヘンリ=テューダー
ボアーズの戦いに勝つ(後のヘンリ7世)
三代目のリチャード3世負ける - - -
ヘンリ7世はエドワード4世の娘と結婚し和解。戦争で没落した貴族の土地を没収しイギリス絶対王政の基礎を築いた - - -