パリー@:ノートル・ダム大聖堂
特徴初期ゴシック代表(1166年起工125完成) 最も有名なノートル・ダム大聖堂
ノートル・ダム(Notre-Dame):イエスの母マリアを表す、フランス語で我々の婦人になる。英語ではOur Ladyに相当。一般的にはノートルダムといえばパリの大聖堂を意味するようになってしまっているが、もともとはシャルトルの大聖堂(ケルト以来の地母神崇拝)が本家で、他にも北フランスの大聖堂はストラスブール、ルーアン、ランス、アミアンなどほとんどがノートルダムに捧げられている。
 そもそも偶像崇拝禁止の宗教が1100年頃からイエス・キリストを「黙示録」に根拠して「再臨のキリスト」が示されるようになった。そこへ更にマリアが登場するのだから、混乱してくる。そもそも神に対してイエスが執り成しとして登場すること自体にも問題があるのに、そのイエスが神になってしまい、そのイエスにマリアが執り成しをするといった三重構造になってしまう。もうひとつ解らないことは厳格な戒律を課したシトー派の聖ベルナルドゥスが聖母信仰を称揚していることだ。
ともかく12世紀から13世紀にかけての大聖堂の建設ラッシュと聖母マリア信仰は一体となって発展した。このブームを解き明かすためには都市化という社会現象から説明できる。酒井健「ゴシックとは何か」講談社を参考
農業革命と人口増加11世紀から地球の温暖化、開墾、農業革命(三圃制、馬による有輪式重量鋤による土地の深耕、繋駕法の改良)により小麦の増産ができるようになった。しかし人口も増え益々開墾をしなくてはならなくなった。もはや農村では増加した人々を吸収することが不可能になり、都市へと移住せざるを得なくなった。
都市民の不安と新たな共生原理:都市になだれ込んだ人々は従来の地縁、血縁がないもの同士の集まりなので、深い不安にさいなまれていた。そこで都市の誰しもが救われる普遍的な宗教原理が望まれていた。
土着の地母神崇拝を昇華した聖母マリア信仰:各農村ごとに信仰していたケルト、ギリシャ、エジプト、小アジア由来の地母神を普遍的なキリスト教の神にするには、マリアが最適であった。マリアの母性の発見はまさに母なる大地の復活だ。なお1225日は当時の冬至の日で日照時間が最短の底を打って明るい未来を期待する日だ。ミトラ、ケルトなどの祝日をキリスト教が重ね合わせ、異教の信仰を見えなくした(381)
  
▲ノートルダム大聖堂は実に堂々としている殉教者サン・ドニ ▲ユダヤ教の敗北を象徴

▲西正面中央:最後の審判、裁きのキリストにマリアとヨハネが執り成しをしている

▲西正面右:聖アンナのポルタイユは聖マリアがキリストを差し出す

▲聖処女の扉口
・下段:契約の櫃を中心とし右側に旧約聖書の王たち、左に預言者たち
・中段:二人の天子がマリアを持ち上げようとし、復活を表スト同時に、中央のキリストが聖母の魂を天国に 持っていく様子が描かれている。
・上段:キリストの前にいる聖母に天子が舞い降り王冠を乗せる

▲南側のバラ窓  赤色を中心として構成

▲ランセットの一部

▲北側のバラ窓  直径12.9m  隅にもステンドグラスを施している
・中心には聖母子像
・中心から16本の框(かまち)が出ていて、16個のメダイヨンがある(15人の預言者とファラオ)
・第2週は更に2分割され32のメダイヨンがある(18人の王、13人の土師、1人の女預言者)
・外周の三つ葉形メダイヨン(26人の大司祭、6人の王)

▲ランセット(全部では18ある)にはマリアの祖先である18人のユダヤの王たち(19世紀のもの)

▲西側バラ窓とパイプオルガンの影  南北、西側の三つのバラ窓の中で最も古い
   総合TOP  ヨーロッパ紀行TOP 日本庭園TOP