場所:  アテネ〜アクロポリス・ヘファイスチオン神殿・ゼウス神殿
 ギリシア美術古典期(紀元前4世紀〜5世紀)の最高傑作と褒め称えられるパルテノン神殿は、紀元前480年から建設がはじまり、一度、ペルシア軍の再侵攻によって、中断されている。
 紀元前480年秋、マラトンでの雪辱をはらすべく、ペルシアのクセルクセス1世は、総勢20万の軍勢を率い、ギリシアを強襲した。アテネは占領され、建設途上の神殿も破壊された。このときの神殿を、旧パルテノン神殿と呼ぶ。その後、サラミスの海戦(紀元前480年)、プラタイアイの戦い(紀元前479年)を経て、ギリシア軍はアテネを奪還することに成功した。紀元前447年になると、神殿の建設は再開され、フェイディアスなどの古代ギリシア建築の著名な建築家が腕を振るった。こうしてパルテノン神殿は、紀元前447年〜432年までの15年の月日をかけて完成した。
 その後パルテノン神殿は、ギリシア世界がローマに取って代わられると、キリスト教の普及とともに、聖マリア教会として転用されるようになった(イタリア、ギリシャなどの古代建築のほとんどが建築資材の供給場所となってしまった。その中にあって一部の建物は教会として使用された場合のみ存続した)。
 1687年には、オスマン・トルコ軍とヴェネツィア軍との戦いにより、神殿の一部が破壊されるが、それでもまだパルテノン神殿は、最盛期の美しさを残していた。
 しかし、長い歳月や戦争を耐えたパルテノン神殿も、略奪による破壊には耐えられなかった1801年、イギリスが当時戦争で疲弊しきったオスマン・トルコ帝国を通じて、神殿の大部分を略奪した。
(下記スケッチ画は小学館の「世界美術大全集」4ギリシャ・クラッシックとヘレニズム338Pより)


中世では教会として使用されていた

▲1687年9月26日ヴェネツィア共和国の砲撃により火薬庫として利用されていた神殿は破壊

▲プロピュライア(前門)はまるで原始林の山を登るようだ
ペリクレスはサラミスの海戦でペルシャに勝利した後、デロス同盟の盟主としての威厳を示すべく廃墟と化したアクロポリスの復興計画を立てた(紀元前461年から紀元前429年)。彼は民主主義の元祖と言われて「我々は他の国家の法の真似ではない市民憲法を要している。むしろ、我々こそ他者の手本である。我々の政府の形態が、民衆の政府と呼ばれるのも故ないことではない。なぜなら、権力はわずかな人間が握るのではなく、全員のものだからである」は民主政治を確立した自信にあふれている。

▲6人の乙女像は健康的な美しさ
エレクティオン(紀元前408年完成)の南西部に張り出した柱廊の柱には6人の乙女像よりなっている。オリジナルはアクロポリス博物館にあるのでまじかに見たい。

パルテノンの神殿
 神殿の基礎部分は、東西69.50メートル、南北30.88メートルあり、3段の階段状になっている。基壇に沿って周囲を囲むように、高さ18.5メートルのドリス式の円柱が建てられ、正面、裏面から見ると8本ずつ、側面から見ると15本ずつ配置され、神殿を支えているこの真っ白い大理石の色調は光の加減で微妙に変化する。午前中は赤く染まり、真昼の太陽では黄色身を帯、日が暮れてくると青っぽい紫色になる。

 神殿の建つ基壇の最上部床面は、微妙なカーブを描いている。その床面の中央部は隅の部分より17センチ高くなっている。柱上の梁の部分も中央が6センチ高く、弓なりに反っている。円柱の直径は柱の位置によって異なり、正面中央部では下端の直径が1.9メートルであるのに対し、隅の柱は1.94メートルと若干太くなっている。また全ての柱が数センチずつ神殿の内側に傾いている。このように神殿全体が、微妙な曲線を持って構成されていて壮大な神殿が重圧感を与えるのを防いでいる。アテネが最も輝いた時期の「神殿の中の神殿」は確かな技術と高い芸術性で満たされている。

▲パウロが演説をしたアレオパゴスよりアクロポリスを望む
 パウロは古代文明最高の哲学、芸術の都アテネに来た。パウロはエピクロス派、ストア派の哲学者とも討論した。アクロポリスを望むアゴラでは世界中の学問の徒が集まり、絢爛豪華な列柱、彫像が立っている。ユダヤの地から来たパウロは怖気ついただろうか、それとも偶像を拝む都会人を哀れんだであろうか。私はアゴラやアレオパゴスでまわりを観ながら思いに耽った。下記の演説のうち「神は天の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません」の部分は合理的なので相当な人の共感を得たであろうか。しかし「死者の復活」となると合理的な論理の世界に生きていたアテネの人々にはほとんど受け入れられなかったのではないだろうか。パウロは意気消沈してアテネを後にした。歴史にはifがないと言われるがパウロがもし当初の計画のようにローマで演説をしたならば、どのような反応があったであろうか。ローマのほうが実用の世界であるから繁栄から落ちこぼれた人、政争に敗れた人、快楽や飽食に飽きた人、奴隷や虐げられた人など弱者の救済の思想はかなり多くの人に受け入れられたのではないか。
 
▲ディオニュソス劇場                 ▲ソクラテスの入った?牢屋

▲古代アゴラにあるヘファイストス神殿       

▲古代アゴラの列柱よりアクロポリスを望む

▲朝日に映えるアクロポリス       

▲ライトアップされた神殿

▲プラカ地区の屋上レストランよりアクロポリスを望む
 
▲ゼウス神殿 かつては104本あった柱           ▲パルテノン神殿の麓は散歩道

▲アフェア神殿
この神殿はエギナ島にある。一本の石から出来たドーリア式の柱は古式なスタイルで24本残っている

パウロの宣教の旅に関して
使徒言行録
アテネ 17:16
パウロはアテネで二人を待っている間に、この町の至るところに偶像があるのを見て憤慨した。それで、会堂ではユダヤ人や神をあがめる人々と論じ、また、広場では居合わせた人々と毎日論じ合っていた。また、エピクロス派やストア派の幾人かの哲学者もパウロと討論したが、その中には、「このおしゃべりは、何を言いたいのだろうか」と言う者もいれば、「彼は外国の神々の宣伝をする者らしい」と言う者もいた。パウロが、イエスと復活について福音を告げ知らせていたからである。そこで、彼らはパウロをアレオパゴスに連れて行き、こう言った。「あなたが説いているこの新しい教えがどんなものか、知らせてもらえないか。奇妙なことをわたしたちに聞かせているが、それがどんな意味なのか知りたいのだ。」すべてのアテネ人やそこに在留する外国人は、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過ごしていたのである。 パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。 また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。 神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。皆さんのうちのある詩人たちも、/『我らは神の中に生き、動き、存在する』/『我らもその子孫である』と、/言っているとおりです。わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」 死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。それで、パウロはその場を立ち去った。 しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた。使徒 コリントで 18:1 その後、パウロはアテネを去ってコリントへ行った。

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