地名:テッサロニキ
歴史
 テッサロニケは一般的には日本人はあまり行かないが、ここはアレキサンダー大王を生んだマケドニア王国の中心地だ。テッサロニキにはローマ時代の遺跡やビザンチン時代のギリシャ正教の教会がいくつもあリ世界遺産の宝庫だ。
 さらにテッサロニキ西へ約40分行ったところにはマケドニアの首都ペラが、さらにその先には王家の墳墓群ヴェルギナがある。
そもそもマケドニア王国は紀元前700に興った小国であった。アレキサンダー大王の父親であるフィリポスU世はギリシャをも統一する大国にした。ギリシャ地図を見るとすぐお解かりのように南部は岩ばかりの土地のため小さなポリスが群雄割拠しているだけである。ここマケドニアは沃野が広がっており統一王国が出来る予感がある。そこへ、新たに支配下に置いたフィリピのバンゲウス山から金が産出するに及んで、ギリシャを統一しさらにペルシャをも制覇することになった。

 フィリポU世の跡を継いだアレキサンダー大王は11年による東方遠征をしギリシャの文化と東洋の文化を融合したヘレニズム時代の基礎を作った。彼の早すぎる死後約40年にわたる将軍たちの後継者争いの後、マケドニア(アンティゴノス朝)、エジプト(プトレマイオス朝)、シリア(セレウコス朝)に分裂した。マケドニアを制したカッサンドロスは前315年大王の異母妹テッサロニケを妻とし、この街をテッサロニケとした。

▲聖ディミトリオス聖堂は5世紀の創建以来何度も再建されていて、最近では1917年の火災のあと再建された聖ディミトリオスはガレリウス帝の拷問を受けても改宗せず、ローマ浴場の地下排水所で処刑された。

▲祭壇正面の左右にあるモザイクは7世紀

▲聖ディミトリオス聖堂はこのローマ浴場に作られた

▲聖ソフィア聖堂の聖母子像

▲柱頭には複雑な彫刻が施されている

▲聖使徒聖堂

▲聖使徒聖堂の内部には14世紀のフレスコ画

▲聖エカテリーネ聖堂

アケイロ・ポリトス

▲ガレリウスの凱旋門 303年ササン朝ペルシャに勝利した記念

▲ローマ時代のアゴラ

▲ロトンダ 直径24.15mの円筒状の建物。もとはガレリウス皇帝の霊廟306年建設。その後教会として改造され、天井ドームには5世紀のモザイクがある(工事中であった)。
  
テッサロニキ考古博物館にて:美しい十代   医学の祖アスクレピオス  皇帝オクタビアヌス

▲ロトンダにて

▲くだもの店

▲中央市場の魚屋

▲路上のカフェ

テッサロニケ
テッサロニケではユダヤ人による反発が強く殺されそうになるが、ヤソンなどの熱心な信者に助けられベレア(現ヴェリア)に逃げた。パウロは手紙の中で自分たちを命がけで逃がしてくれた信者に感謝している。

使徒言行録
17:1〜10
パウロとシラスは、アンフィポリスとアポロニアを経てテサロニケに着いた。ここにはユダヤ人の会堂があった。パウロはいつものように、ユダヤ人の集まっているところへ入って行き、三回の安息日にわたって聖書を引用して論じ合い、「メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた」と、また、「このメシアはわたしが伝えているイエスである」と説明し、論証した。それで、彼らのうちのある者は信じて、パウロとシラスに従った神をあがめる多くのギリシア人や、かなりの数のおもだった婦人たちも同じように二人に従った。 しかし、ユダヤ人たちはそれをねたみ、広場にたむろしているならず者を何人か抱き込んで暴動を起こし、町を混乱させ、ヤソンの家を襲い、二人を民衆の前に引き出そうとして捜した。しかし、二人が見つからなかったので、ヤソンと数人の兄弟を町の当局者たちのところへ引き立てて行って、大声で言った。「世界中を騒がせてきた連中が、ここにも来ています。ヤソンは彼らをかくまっているのです。彼らは皇帝の勅令に背いて、『イエスという別の王がいる』と言っています。」これを聞いた群衆と町の当局者たちは動揺した。当局者たちは、ヤソンやほかの者たちから保証金を取ったうえで彼らを釈放した。兄弟たちは、直ちに夜のうちにパウロとシラスをベレアへ送り出した。二人はそこへ到着すると、ユダヤ人の会堂に入った。

1テサロニケ信徒への手紙 2:7〜8
わたしたちは、キリストの使徒として権威を主張することができたのです。しかし、あなたがたの間で幼子のようになりました。ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、 わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたはわたしたちにとって愛する者となったからです。

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