アッシジ
アッシジは世界的に見て最も美しい宗教都市といえないだろうか。この小さな山岳都市にはサン・フランシスコが全く新しい都市の宗教を生み出したところだ。従来の宗教改革は「聖ベネディクトゥス戒律」の遵守であった、しかし
12世紀になるといわゆる「12世紀のルネッサンス」と言われるように農業革命により収穫量は2〜3倍になり、人口も3倍近くになり貨幣経済が発達してくる。都市への人口の流入が起こり都市における宗教が必要になる。しかしカトリックの世界は相変わらずローマ教皇を頂点とした堕落集団であった。都市の人間はもはやこのような宗教にはとらわれない新しい自由な宗教を望んでいた。ここに現れたのがドミニコ会の托鉢修道会とアッシジのフランチェスコによる托鉢修道会である。

▲サン・フランチェスコ大聖堂・修道院とアッシジの街を望む

▲朝霧に煙るサン・ルフィーノ大聖堂 

大聖堂の近くにあるSubasioホテルを朝食前に抜け出し、朝の散歩に出かけた。ロッカマジョーレは霧に包まれていて肌寒かったが眼下に霧に包まれたサン・ルフィーの大聖堂とサンタ・キアラ聖堂が徐々にその姿を現してきた。ウンブリア平原の風が爽やかに吹いてくる。
 サンタ・キアラが眠るサンタ・キアラ聖堂の正面は簡素であるがすっきりとした感じで聖女を髣髴とさせる。

▲サンタ・キアラ聖堂

▲サン・ダミアーノ修道院           ▲サン・ダミアーノ修道院回廊 

▲サン・ダミアーノ修道院回廊には聖女キアラか守った「清貧」があるフランシスコが最初に修復したのがこのサン・ダミアーノである 

 この大聖堂はサン・フランチェスコが無所有の乞食集団を理想としていたにもかかわらずまるで城郭のような様子でありやや奇異な感じを受ける。

  そのことは聖人が生きているときから問題になりつつあった。聖人が無所有の集団を志向しても集団が大きくなるに連れて共同生活をする家屋を所有したりする必要が生じてくる。教団を組織化し統率し政治的才能を必要とすることから、もはやフランチェスコによる指導は不可能になり、新しく兄弟団の指導者はエリアがなり、彼はローマ教皇に支持された。聖人の作った戒律の「草案」は改定され「第二戒律」が教皇によって正式に公認された。これに対して聖人は「遺書」の形で本来の意思をしたためたが承認されなかった。このように聖人が存命中に指導者の地位を降りざるを得なかった例が他にあるだろうか。厳格派は弾圧され、トマスによる「小さな花」などの伝記は禁書になり19世紀になるまで姿を隠していた。
  聖者の死後直ちに聖者の栄光のために大聖堂の建設が始まった。弟子の中には師の教えに背くものとして激しい反対をするものもいたが、もはや一般大衆の尊崇の情熱を押しとどめることはできずに突貫工事が始まり多々25年で献堂式が行われた。聖堂建立の資金はアッシジ市民はもちろんのこと全ヨーロッパのあらゆる方面から寄進された。下部聖堂は1228年〜1230年、上部聖堂は1230年〜1253年の短期間で完成。 
  下部聖堂は薄暗く、天井が低いが天井から壁面にいたるまですべてフレスコ画で覆われていて荘厳な雰囲気に包まれている。ここには聖人の遺体が安置されていて、訪れる人が後を断たない。フレスコ画はジオットー、チマブエなどにより「聖フランシスコの肖像」「夕日のマドンナ」などがある。 
 上部聖堂は天井は深い紺と緑で覆われていて、壁面はジオットーによる聖フランシスコの生涯」が全面にわたって描かれている。いずれも静かに語りかけてくる宗教画であるが成人の生涯が
28面にわたり描かれている。中でも日本人に親しまれているのは「小鳥への説教」ではなかろうか。尚その後の地震により聖堂は崩壊したが修復後はどのようになったのだろうか。
 
▲サン・フランチェスコ大聖堂                     ▲上部聖堂
 
サン・フランチェスコ修道院、シクトゥス大回廊        

ポルテンコラ礼拝堂

  サンタ・マリア・デリ・アンジェリ聖堂の中にあるがこの小さな聖堂こそが貧困無所有を理想としたフランチェスコの原点とは言えないだろうか。サンタ・キアラがここで剃髪されサン・フランシスコが1226年ここで亡くなった。

粗末な小屋
  サンタ・マリア・ディリヴォルト聖堂の中には「小さな兄弟会発生の地」を記念して成人と弟子たちが生活した「粗末な小屋」が再現されている。

 
▲ポルテンコラ礼拝堂(サンタ・マリア・デリ・アンジェリ聖堂の中に)▲粗末な小屋(サンタマリア・ディリヴォルト聖堂の中に)

エレモ・デッレ・カルチェリ
  アッシジの東南約4Kmの山の中にある。この洞窟でフランシスコは隠遁をしたそうであるが集団が大きくなるにつれ教団維持のため、ローマ教皇の許可を受けるためなど世間との妥協を強いられたときに、彼はここに隠遁したのでは。
  ここには早朝タクシーで出かけたが、山中で突然止まってしまった。何事かといぶかる我々を尻目に年配の運転手はどこかへ行ってしまった、がしばらくするときれいなスミレのような花を摘んできて妻に渡してくれた。すがすがしい記憶だ。 
 
▲緑に囲まれたエレモ・デッレ・カルチェリ         ▲エレモ・デッレ・カルチェリ 

サン・フランチェスコの年表

118182年 アッシジに生まれる。フランス好きの父かフランテェスコ(小さいフランス人)と呼ばれる
119500年 青春時代を楽しむ
12002年     ペルージャとの戦いで捕虜になりい年間投獄され、病気で帰宅
1206年                   サン・ダミアーノで神の啓示を受ける
1206
08年 父と衝突、サン・ダミアーノ、サン・ピエトロ、ポルテンコラ各聖堂の修復を始める1208年   ポルテンコラでマタイ福音書10713を聞いて決定的体験を受け、説教を始める1209年                    11人の兄弟とともにローマへ行きイノケンティウス3世から「原初会則」を口頭で認められる
1211年                ベネディクト会はフランシスコにポルチンコラ聖堂を貸与
1212年                キアラをポルチンコラに迎え、その後サン・ダミアーノに移り45年間過ごす
1215年                  
第4回ラテラノ公会議に出席(公会議の直前に「原初会則」正式に認められる)
1221年                   ホノリュウス3世「第3回の会則」認める
1221年                   新しく教団長となったエリアはフランチェスコの草案(1221)を改定し「第2戒律」を作り教皇承認教団長を退いたフランチェスコは「遺書」の形でしか自分の本来の意思を表せなくなる1225年                  サン・ダミアーノにクララを訪問。太陽の歌の冒頭を作る
1226年                  ポルティンコラで死去。サンジョルジョ教会に埋葬
1227年                  トン・マーゾの「第1伝記」執筆
122830年 フランシスコ大聖堂の下部聖堂完成、、遺骸はここに移される
1230年                  兄弟団の中で公認された「戒律」かフランチェスコの本来の意思である「遺書」のいずれに従うかの論争がおきたが1230年に教皇グレゴリオ9世により「遺書」は指導者の地位を降りたものの書類なので、教壇に対すて義務付ける法則を発布できないとして「遺書」の無効を決定した
1244年                  フランチェスコの3人の伴侶の回想録を下に「第2伝記」が書かれる
1253年                  トンマーゾが「奇蹟の書」完成
1262年                  聖ボナヴェントゥラによる「大伝記」完成
1266年                  パリ総会で「大伝記」を正典とし、他の伝記(トンマーゾ)は破棄される


サン・フランチェスコの生き方について、実に的確な表現をされている名文があるので以下にその一部を引用
し、さらに「教皇未承認会則」を添付する。

「聖フランチェスコの悲願」 下村寅太郎 世界の聖域14 アッシジの修道院 講談社

……貧困無所有の生活によって「キリストの模倣」をするということはいかなる意義をもつかはきわめて重要な問題である。これはきわめて単純に見えるが、実際は極めて深い、きわめて厳粛な含蓄を持つこと、同時に極めて困難な課題であること、真にフランチェスコの宗教的信仰の本質に触れることであるが、理解されねばならぬ。徹底した貧困無所有の生活を個人のみならず教団の戒律としたこと、これをほとんど唯一の信条としたことは、従来の一切の修道院と根本的に異なるフランチェスコの独創なのである。

フランチェスコの宗教的回心を決定的にしたのは、前記のように、ポルチェンコラの草庵でのミサの裡(うち)に聞いた福音の書一句―「帯の中に金、銀、銭をもたず、旅嚢も、2枚の下着も、靴も、杖ももたず我に従え」であった。これを聞いた時、卒然としてこれを神からの直接の召命として自覚した。これは一衣一縄の外何ものも所有せず、この極端な貧困においてキリストの使徒の生活を実践することである。端的に単純化されたこの信条がフランチェスコのほとんど唯一の信条であって、この生活原理のほかに特別の「思想」はない。神学も、いわんや哲学もない。まさしく天才的な直感である。たしかに「偉大なものは単純」である。フランチェスコはこれを彼に従う兄弟団の根本的指導原理とした。今、貧困無所有を自己自身の「実例」において生きること、それ以外に「小さき兄弟団」の指導原理も戒律もない。特に重要なのは、個人としてのみならず団体としてもむ所有を戒律としたこと、乞食団としたことである。フランチェスコの兄弟団と殆ど同時に結成されたドミニコの兄弟団も無所有を戒律とする乞食団であったが、異端克服を使命とする説教団であった。しかし彼らの貧困は説教による異端克服という目的に対する手段であり、福音説教者たる事のひとつの資格にすぎなかった。しかし、フランチェスコの兄弟団においては、貧困そのものが理想であり目的であり、これによって「キリストの模倣」を実践することであったから、絶対必須のものであった。しかし貧困は如何にして、何故に、しかく重要なものとして要求されるのであるか。

 所有は、物を持つことは、物に頼ること、物見依存することである。無一文になることは無力になることである。頼るべき何ものもないことである。真に貧しく、真に卑しい者になることである。しかしそれによって彼は一切のものが「与えられたもの」、「賜物」になる。すべてのものが恩寵となる。乞食をし施しを受けるのは神から受けるのである。真の無所有は神の外に頼るもののないこと、一切のものから開放されて神に絶対的に憑依することである。その故に貧困生活が宗教生活になる。単に内心においてするのでなく、「実例」において生きること、実証することである。一切を捨てることによって、一切のものが「与えられたもの」になり、一切のものと兄弟となりしまいとなる。「兄弟なる太陽」、「兄弟なる風」、水、火、大地、すべてが兄弟、わが姉妹となる。フランチェスコは最後に「死」をも「わが姉妹」と呼んで太陽賛歌に加えた。死をも否まず、これを悦び迎えた。
「聖者は歌いながら死を迎えた」と伝記は記している。



「第1会則」あるいは「
1221年の会則」「教皇未承認会則」
第1章 兄弟たちは従順、清貧、貞節に生きる
第2章 兄弟たちは粗末なものを着なくてはならない
7章 「怠情は霊魂の敵である」から労働に専念し、但し金銭あるいは金庫の管理者になってはならない
8章 兄弟たちは金銭を受け取ることも、受け取らせることも許されない。金銭を小石以上に利用し、評価してもならず、これほど無価値なもののために、神の国を失うことのないよう警戒しなければならない。金銭は、「空の空」だからである
第9章 兄弟たちは必要なら施しを乞いに出ることを恥じてはならない。主キリストは、「顔を石のようにして」恥じることなく、また処女マリアも弟子たちも施しによって生活されたからである
14章 旅のために財布も袋もパンもお金も杖も持ってはならない
22章 「あなた方の敵を愛し、あなた方を迫害する者のために祈りなさい」と主はおおせられた。だから「口難、苦悩、恥辱、不正、悲しみ、虐待、殉教および死を、理由もなく私たちに与えるこれらすべての人々こそ、私たちの友であり、彼らを心から愛さなければならない。なぜなら彼らこそ私たちに永遠の命を与えてくれるからである」

 
▲ミネルバ神殿(ローマ時代)ゲーテが感嘆した   ▲宗教都市ならでは
 

▲石畳の街を歩くのが楽しい         ▲窓辺には花が飾られている

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