慈照寺(銀閣寺)  室町時代
京都市左京区銀閣寺町2  電話:075−771−5725
 足利義政が応仁の乱の後に長年かけて自らが河原者使って作った庭である。彼は愛する西芳寺を常に訪ね、それと同じ庭を作ることを理想としていた。このことは蔭涼軒日録に義政は石や樹木まで自ら選んでいたことが詳しく記されている。見所は滝、東求道前の白鶴島石組、石橋などである。
  一方、白川砂からなる銀沙灘、向月台はその発生の由来は諸説あるが、池の底ざらいされた白川砂が積もったとする説が有力のようだ。
  現在我々は銀沙灘、向月台などを抽象的な芸術として鑑賞しようとしているが、如何なものだろうか。庭園のど真ん中にこのような造形物が無い時には、どのような石や、建物があったのであろうか。義政の時代の作品を鑑賞したいものだ。
第一この庭からは藤戸石(現在は三宝院にある)や九山八海石を初め、多くの石が持ち出されている。金閣、銀閣と並び称されているが、こと庭園に関してはずいぶん違うようになっている。義政は家督問題に端を発した応仁の乱のさなか1473年将軍職を義尚に譲って、もっぱら山荘作りをし、8年後に亡くなった。  蛇足ながら銀閣寺と言われだしたのは、江戸時代からで本来は観音殿といわれた。また銀箔は張られておらず漆塗りであったそうだ。この説には疑問があったが2007年初頭に正式に認められた。

▲まさに歴史が作った造形

東求堂と白鶴島  写真の視点では鶴は休息している。東求堂は書院として最古のもの

▲東求堂より見た白鶴島
  東求堂側から見ると中央にある三尊石が首に見え、島の両端にある橋が翼に見え、鶴が飛翔しているに見える。(春秋の特別公開の時期に撮影) この三尊岩組みは西芳寺をモデルとしている。この島には左側の仙佳橋と、右側の仙袖橋の三橋が架かっている。本来、仙人の住む島には橋が架かっていないのであるが、この時代からこのような風潮が始まった。桃山時代には豪華な橋が架かる。

▲東求堂よりの坐禅石と白鶴島 
 西芳寺の坐禅石に比べると高さが低くなっていると共に、目的が異なっているのではないだろうか。ここでは石組みのアクセサリーになってしまっている。

▲左より・仙袖橋(せんしゅうきょう)・白鶴島・仙桂橋(せんけいきょう)

▲銀閣  義政は金閣を真似たのではなく、むしろ西芳寺の瑠璃殿を参考にしたと思われる

▲白鶴島の南東の護岸岩組み

▲仙人州の東対岸護岸岩組み

▲洗月泉右側の護岸岩組みと水路  江戸時代中期のもの

▲洗月泉   龍門の滝でないのが不思議。 龍門瀑であるならば鯉魚石が見当たらないが、九山八海石、碧巌石が運び出されているのだから、鯉魚石も搬出されたと推測する。滝の左側はいくつもの岩を組み合わせているが、ここに「藤戸石」が碧巌石としてあったと思われる。

▲三宝院の藤戸石 
 名石としての名をほしいままにしているが、彼の運命は流浪の民である。元は岡山県の藤戸の渡の川の中にあり、当時から有名であった。これを義政が銀閣寺に運び、それを細川氏綱が運び出し、更に信長の条城へ移り、秀吉が聚楽第に移し、最後に三宝院に落ち着いた。
これと同様の運命は慈照寺の九山八海石も信長が足利義昭のために二条御所に運び去った。

▲漱蘚亭跡と相君泉(左側)と上部岩組み(露出岩盤の岩を利用した岩組み)

▲山上部石組み 江戸時代末期に山崩れで埋もれてしまったが、昭和6年に発掘
  西芳寺に倣って作ったとするならば、枯山水で三段の滝と上中下三段の修行の広場があったのだろうか。
これだけの岩が急峻な傾斜地に組まれているのは、相当な目的と意志があると考えられる。尚、釈迦は楞伽窟(りょうがくつ)と名づけ、悟りの度合いに応じた段に座り、上級者から刺激を受ける場に指導している。

▲相君泉  西芳寺の坐禅石と龍淵水の構造そのものではないか。左右の坐禅石は形式化したとはいえ西芳寺の坐禅石の意味合いがかろうじて認められる。上記写真のような岩組みがこの相君泉の隣にあるのだから明らかに西芳寺の坐禅石・枯滝を倣ったものと考えられる。

▲新しく作られた超然亭跡への道。
向上関のような門を通り漱蘚亭跡ヘ  

▲新しく作られた展望所への階段
(展望所の上が超然亭跡と想定して)

銀沙灘、向月台
  今となっては無くてはならぬモニュメントのようであるが、これが無ければどんな世界があったのだろうか。白川砂からなる銀沙灘、向月台はその発生の由来は諸説あるが、池の底ざらいされた白川砂が積もったとする説が有力だ。

▲雪の銀閣

▲仙人州 左奥が銀閣、右奥が向月台。仙人洲に石が少なく物足りない

▲仙人洲に架かる迎仙橋(げいせんきょう)と浮石(銀閣前)

▲銀閣前の石組みと濯錦橋(たっきんきょう)

迎仙橋手前の堅固な石組み

▲白鶴島に架かる仙袖橋(せんしゅうきょう・当初の橋)

▲白鶴島に架かる仙佳橋(せんけいきょう・当初の橋と思われる、片側は自然石、片側は人工の切石)。

▲銀閣前にある分界橋(江戸時代の改造)

▲濯錦橋(たっきんきょう)は人工的な切り石で出来ている。江戸時代の初期(元和、寛永)の改造されたもの

▲手入れ

▲園内の掃除

▲展望  上部岩組みから九十九折の坂を登ると慈照寺の全景が展望できる。この展望所の上辺りに超然亭があったのだろうか。
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三尊石組