井上氏庭園  巨石壷庭園  重森最初期の庭(昭和15年)
大阪市生野区  非公開
個人住宅の庭園における枯山水庭園について
  昭和15年には西宮の斧原氏、豊中の西山氏とともに三越の岡田氏との縁で井上氏も自宅と茶室の建設とともに庭園を造った。重森の京阪地区への進出の最も初期の作品である。この時期の作風を探ることで彼が日本庭園を如何なる形で復興しようとしていたかを知ることができると思う。
  彼は枯山水に特別の興味を持っていた。一般的には寺院の方丈の南側は白州を敷き詰めた草木はもちろん石組みの無い完全に平滑な空間である。そこに庭園を作るとすれば、先ずは龍安寺のような石庭になるであろう。では、個人の住宅においての枯山水は存在できないであろうか。個人所有の庭は水が流れ、草木が植えられた庭が想像できる。しかし、重森は考えた。確かに池があり、草木の緑があれば一応の庭らしきものは出来る。作品の出来不出来はあっても一応の安らぎを得ることが出来、満足を得ることになる。
しかし、それが本来の日本庭園であったのだろうか、植木屋や灯篭業者は潤うことが出来ても、芸術としての庭に値するであろうか。
  日本人は古来自然を人間と一体化して考えた、水や植栽による安らぎの庭も平安時代には確立されていた。その後大陸から禅思想が入ってくることにより、厳しいが心の充足を得ることが出来る庭を発生させた。
  上記三庭園とも水のまったく無い枯山水で個人住宅の庭を作りきった。斧原家においては曲水をテーマと氏ながら白州で象徴し、西山家においては旧庭が池泉回遊式でありながら、それをまったく払拭し枯滝から滔々と枯流水が流れそこに橋が架かっている。つまり、個人住宅の庭園においても、始から完全な形の枯山水が完成していたことになる。
月の庭について
  先生は「月の庭」に関して昭和17年に出版された本「庭の美」の中で当家の庭について記されている。以下に拾い読みをする。
  古来、月の庭に関する詩が多い。「万葉集」に始まり「栄花物語」、「金葉集」の和歌を例に出しながら池に写る月を愛でた様を記している。また、ご自身が銀閣寺に招待され銀沙灘、向月台が真っ白く浮かび上がった様の美しさを述べている。さらに、ご自分が東福寺・光明院の白州配石を「光明」とした事が記されている。
  最後に当井上家の庭園について記されている。井上家のご夫妻が月が中天に懸かるころ、ふと見ると、その月が手水鉢の背後の石に投じて不思議な美観であった。先生もご一緒にその月を愛でようではないか、との申し出があったそうである。詩情溢れる世界ではないだろうか。その後先生は何度も井上家に宿泊されている、とのことであるから、きっとその光景をめでられたことと思う。
巨石壷の庭
  当初は庭園の横に茶室があったが今回の戦争で全焼してしまった。しかし岩組みはそのまま残った、石には永遠の命がある。一般のお宅であれば、この小さな庭を撤去して新しい家を建てたであろう。しかし当家では重森先生と、この庭自身に対する愛情があったため石組みはそのままにしてあった。そのため我々は重森の庭に対する考え方を垣間見ることが出来る。狭いけれを深山幽谷の趣があふれている。見た瞬間に私は驚愕した。凄い!凄過ぎる!
  庭園であるが蹲も兼ねている。この庭の中心部の手水鉢を中心としてすり鉢上になっていて、聖なる空間である。林立する石は小さいけれど、鋭いエッジが環状に配置されているために、不思議な雰囲気が漂う。市中における山居の趣だ。庭は小さくても大きく感じられる。重森先生の創意のみなぎった珠玉の一品。


▲小さな空間に禅の気風がみなぎった蹲庭園である

▲上記写真の拡大、庭石が雲南省の石林や安徽省の黄山のように見える

▲正面に鏡石があるが、重森はここに写る月を眺めたであろうか。

▲森厳なる蹲庭園。鏡石、湯桶石、前石、手燭石。


▲鏡石背後より撮影

▲手水鉢の左側に前石、下側に湯桶石、右側に鏡石、上側に手燭石がある。一応蹲の様式であるが、基本的には庭園の岩組みとして組まれている。

▲鞍馬の玉石の考案。この手法は西宮の北川氏、斧原氏、豊中の西山氏、京都の四方氏などでも用いられた。

▲当初、当家には現在の庭園と消失した茶室とは別に木津宗泉による本格的な茶室が建てられた。しかし、その不幸が続いたため茶室の方角が良くないと解釈し新たな茶室を建てた。庭園はそのとき重森によって作られた。

▲苔寺の鏡石(左)と坐禅石  坐禅に入る前に龍淵水(泉)で心身を清める。
 井上家の鏡石はまさに苔寺の鏡石である。重森の蹲は習い事の蹲とは異なり、原点は禅にあったのである。
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