粉河寺 江戸中期 枯山水  民衆の勧進で出来た豪快無比の庭
和歌山県那賀郡粉河町粉河
沿革
  創建は相当古いが、しかし豊臣秀吉の根来攻めのときに兵火に遭い堂塔伽藍をことごとく消失した。このときは宿坊550坊、領地は東西一里、南北一里あり、四万石の寺領があった。その後再建、消失を三度繰り返した。現在の本堂は1773年に完成したもの。この再建に当たっては数多くの浄財によってなされたのである。庭園はその後やはり勧請により徐々に作り上げられたと推測される。
庭園
  本堂前の石段の左右にある庭園を見たら、誰をもがあっと驚き言葉が出ないのではないか。江戸の中期から末期にかけて、辺境の地にこのような豪快無比な庭があるのだろうか。このような驚きは徳島の旧国分寺で味わって以来である。この垂直の壁とも石垣ともいえる庭は世界で唯一のものではないだろうか。さて、当庭園の主題は鶴亀蓬莱である。階段左側に巨石が巨石があるが。右側が鶴の羽石、左側が亀の亀甲石のように見える。その逆にも見えるが。問題は鶴亀の間にある渓谷だ。がっしりと岩が組まれ将に深山幽谷の景である。全国の名所でもこれだけ峨々とした景色があるだろうか。自然をも超えた風景に圧倒される。更に峡谷の上部には石橋が架かっているが、これは玉かん式石橋といって、天台山方広寺にある石梁飛瀑の様を表しているそうだ。階段右側は伝承によると京都の師匠が組んだらしいが、やや石垣的要素が残っている。

  誰が作ったのかの問題であるが、ハッキリしないそうである。このような作風の庭が和歌山県か京都にあってもよさそうだ。私の素人考えであるが、石垣を組む集団が作ったのではないだろうか。その理由は、
@彼らは石を垂直に組む技術を習熟している。現に、この庭に巨石を幾段にも組みながら全く揺るぎがない。
A水平的な広がりが一切ない。このことは従来の伝統職人である庭師には出来ない発想ではないだろうか。
結論
  江戸時代も末期になると、何事にも惰性になり進取の気風が損なわれて来るが、この紀州においてまったく新しい庭園ができたことは、驚きであると同時に敬意を表したい。
@京都から離れていたからこそ、従来の職人集団から離れた発想で作ることが出来た。
A寺や、庭を作るにあたって、費用は大衆の浄財によるものであった。こつこつと勧請をし最高のものを作るように検討した。そのために力強いのではないのだろうか。
B巨石、名石がこの辺りで採掘しやすい
備考)
紀州石の雑賀崎の青石(緑泥片岩)、琴浦の紫石(赤簾片岩)、龍門山の龍門石(蛇紋岩)を用いている。

▲大門

中門

春爛漫の絢爛豪華な石組

左側石組部分の全景

▲堅固な石組み(玉澗式橋の架かる峡谷の右側)

豪華絢爛たる石組  中央の玉澗式の渓谷と橋を挟んで左右に巨大な石を配し、背後にも須弥山を思わせる刃物の切っ先丈の青石と三本の垂直に立てた遠山石が効果的に奥行きを与えている。

▲玉間式石組み  虚空に架かる橋は渡るに渡れなさそう

鶴亀蓬莱式の庭

名古屋城の玉間流石橋と双璧だ

▲天空に架かる危うげな橋
 
▲峡谷部                             ▲虚空に架かる玉澗式石橋

▲竜頭石と壁庭園   この傾斜した石によって立体性をもつ

▲階段右側 師匠が組んだといわれている  石垣的要素が残っている

というのは平面的で、テーマが感じられない。つまり庭園とは単に造形だけでは面白さが感じられない。造形に意味を持たせなければならないことを教えている。

▲階段右の右端
  最近修理された部分で背後に三尊様式の造形と手前の傾斜面には枯滝状になっている
 
▲先ず参拝をして                      ▲熱心な説明

▲御池坊庭園(山門は行って左側)  傾斜面を利用した庭(江戸初期・昭和復元)

▲豊富な石をしっかりと組んでいる。S字型に流れる水が美しい

▲花岡青洲の春林軒。世界に先がけた麻酔手術  ▲花岡青洲記念館  
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