金地院  江戸時代初期  枯山水
京都市左京区南禅寺福地町86−12  電話:075−771−3511
  金地院崇伝は家康を初め三代に渡って徳川幕府に務めた名僧。彼は小堀遠州に設計させ、賢庭が施工した。鶴亀島、蓬莱山と型どおりであるが手前に白砂により大海をあらわし、背後には大刈り込みを配して深山幽谷の趣を醸しだしている。鶴島、亀島の石は申し分のなく、この石を正面からがっしりと配置ししている。またこの庭の本当の意味は礼拝石にある。この異常に大きな石は本来は橋は石橋用として寄進されたものであるが、ここではどこの庭にも無い礼拝石として使用した。本来の目的は大刈り込みの後ろに鎮座している東照宮の荘厳のためである。

蘇った小堀遠州の庭
鶴亀蓬莱の庭で有名であるが、今回「小堀遠州の庭は かく あった」と解るようにしたのは佐々木ご住職である。その根拠は『金地院境内指図』と『都林泉名所図会』である。
そのポイントは
@鶴島、亀島とも白砂に接している(海洋に浮かぶ神仙島を象徴)→鶴亀島周辺の苔を除去
A鶴島には『金地院境内指図』には松が植えてなかった、『都林泉名所図会』では、松が植えてあるが枝が現在のように生い茂っていない。→松の枝を大胆に剪定した。
B後世植えたと思われるツツジの除去→亀甲石前・鬼頭石前・富士石前などのツツジの選定・除去

全景:左から完全な条件を備えた亀島、中央は蓬莱石組み、礼拝石、鶴島


中央部拡大


遥拝石の嵩上げを行った(白川砂の粉化に伴い、新たな砂を入れる際に、粉化した砂の除去が少ないと、次第に白川砂の嵩が上がり、遥拝石の高さが薄くなっている。ここではPCで遥拝石などの石の嵩上げを行った)。その結果石組みの造形にメリハリが出て、小堀遠州特有の幾何学模様が浮き上がってきた。

鶴島から遥拝石を望むと遥拝石の断面は栗石側が白砂側よりも約2倍である。このことは白砂を新たに入れる時に、粉化した白砂をバランス良く除去していないことに起因していることが解る

鶴島の造形(松の枝の選定と島周辺の苔の除去により鶴島の造形が明確になった)

遥拝石と言われる中央の大きな長方形の石の左側に、長方形の石がある。この石は周辺にある、栗石と白砂の境界用の石とは明らかに異なっている。この石の方向は大刈込の背後にある東照宮の方向を向いていることは『金地院境内指図』からも明らかである。

『金地院境内指図』で石の方向を外挿すると東照宮に至るが、この指図が正確であるかは不明である。よって今回はGogle earth によって確認された。
考察)
従来より遥拝石と言われている大きな石は、三代将軍用の儀礼的な名目上の石である、一方、各大名などが東照宮を礼拝する実質的な遥拝石は今回明らかになった鬼頭石前の石であると思われる。

▲旧全景  左から完全な条件を備えた亀島、中央は蓬莱石組み、礼拝石、鶴島の一部

▲旧鶴島

▲鶴島の岩組み  巨石で豪快に組まれている
  鶴嘴石は長さ4m・幅1.3m・高さ56cm

▲亀島は蓬莱山中にある仙樹の象徴である傘形の柏槙(びゃくしん)を背負っている。
 この亀甲石は三宝院のそれと瓜二つである

▲中央部拡大  写真右側には亀石がある  遥拝石は横4m×縦2m(4畳弱)
総合TOP  ヨーロッパ紀行TOP 日本庭園TOP    
蓬莱石組
鶴島
柏槙(びゃくしん)
礼拝石
亀島
亀尾石