本堂前庭園・客殿西庭園・客殿南庭園  鎌倉ー南北朝時代 夢窓国師による龍門瀑か
長野県駒ヶ根市赤穂
沿革
  860年慈覚大師の高弟本聖上人が、夢告によって不動明王の尊像を得て、ここに一寺を建てたのが始まりとされている。その後武田家の保護を受けたり、家光から朱印を受けたりして、信州五大寺の一つとして善光寺と並んで学問寺として隆盛を極めた。しかしその後三度の火災に遇い堂塔のほとんどを喪失した。
龍門瀑
  上記のように度重なる大火により庭園に関する資料はないが、滝石組が龍門瀑形式であることから鎌倉・南北朝時代のものと推定される。滝は山門から入った島の左奥の石垣の下にある。龍門瀑は比較的丸みを帯びた石で組まれていて、中段に組まれた鯉魚石は、最後の滝に挑みかからんとした姿に組まれている。
  作者は蘭渓道隆がスパイ説で鎌倉から追放に遭ったときに作ったのか、夢窓国師が遍歴のときに作った、との説があるが、断定できる資料がない。しかし、このような大胆な構成で滝を表現できる人物は他には見当たらないのではないか。
 夢窓国師は京都と鎌倉を往復する際に甲州と多治見の虎渓山・永保寺を経由している。となると、当光前寺はその経路にあると思うのです。しかし、現在我々が知る中山道は諏訪・岡谷・塩尻・妻籠・馬籠・中津川である。一方現代の中山道というべき高速道路の中央道は伊那谷を通っていて、当寺には駒ヶ根インターを下車となる。そこで調べてみると東山道(中山道)は比較的新しく武田信玄時代に始まり徳川時代に完成したものである。一方諏訪から伊那谷を下る遠州街道は古くからあり、飯田辺りから多治見方面に行く道は、神坂(みさか)峠がある。この峠は古代からあり街道としては一般的なようだ。そこで考えられるのは、夢窓国師は伊那谷を下り、秀麗な姿を見せる木曾駒ケ岳の麓にある光前寺に龍門瀑を祭った。その後、神坂峠を越え多治見の虎渓山に至った。

▲三重塔と龍門瀑(写真右側に本堂がある)
  本堂と三重塔の間に龍門瀑を設けてある。このことからしても滝がいかにに重要視されていたかが分かる(一部にこの滝は石垣が崩れたものとする説があるが、全体の構成や滝下段左側の石が積み上げられている事実を見ただけでも分かると思う)

龍門瀑
鯉魚石・碧巌石(松の根元)・平滑な水落石が揃っている

龍門瀑   
  この寺は背後に山を背負っているために、立体的な滝が作りやすい。また豊富な水が得られやすため、自然な状態でこのように美しく水が流れている滝は珍しい

龍門瀑

横から見た全景
  護岸・龍頭石・龍門瀑布

龍門瀑を横から見た景  
  右手前にある石は倒れているのではなく傾けてある石だそうだ。斎藤先生は龍頭石と名づけている。
その理由は、鯉が龍門瀑を登りきれば、龍となるのだから、龍に化身しかかった状態を表しているのだろうか。
竜頭石と滝がセットになっていることで、ますますこの滝が龍門瀑である証拠だ。

横から見た龍門瀑

赤松の横にある石は碧巌石である。俣野の石は偶然上流から流れ的なのでは無い。
写真右下に見えるように碧巌石の下には扁平な石が人為的に敷かれている。

護岸の巨石と三尊石(右)

護岸の巨石 、右下は三尊石の一部

三尊石と池中に落ちた亀頭石

▲紅葉の本堂


杉木立のお陰で「ヒカリ苔」が育つ

▲朝霧の国宝三重の塔と早太郎

▲境内左奥には賽の河原らしきところがあるが、静かで心地よい

▲駒ヶ根岳の春

▲駒ヶ根岳

▲雪の三重塔

客殿西部庭園の入口にある流れの庭園には5mを超える横石がある

頂部にある倒れた石は釈迦か阿弥陀如来か。または須弥山か

庭園山頂部の巨石群

坐禅石か(益田市にある萬福寺の坐禅石と大きさ・形・石組がそっくりである)

観音石か
資料
龍門瀑である理由
@蘭渓または夢窓の伝承
A鋭角なり魚石
B組まれた痕跡が明瞭な碧巌石
C水落石は平板状である
この事は『作庭記』に以下のように書かれている。
森蘊氏の「作庭記の世界」NHKブックスの55Pには
滝をたてるには、第一に水落の石を選ばなければならない。
その水落の石は、作り石のように面の滑らかなのは面白みがない
滝が三、四尺にもなれば、山石の水落が美しく、表面が狭まり気味のものを用いるべきである。

光前寺のフラットな水落石

天龍寺(夢窓疎石作)
二枚の滝石は典型的な禅風の滝である。この石は三好氏より足利氏に献上された。

願勝寺(徳島県) 上記天竜寺の石を献上したために、双子と云える構成である。

金閣寺の三級巖は巨大な扁平な青石である

保国寺(足利義満とも関係がある、東福寺系の名刹)
三段の滝の内、中段と上段の滝は長方形の石で垂直な面を示している

常栄寺(山口市の雪舟寺)
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