京極氏庭園跡(米原市上平寺):室町時代末期の戦国武将の庭(1523年)
 谷あいに南北に同じような池庭跡がある。ただし北側の庭はほとんど石組がないが、一方北側の池周辺には約100石による石組みが見られる。庭園面積は奥行き約55m、幅約15m。
 南側の池の南側には京極氏館跡の礎石があることから、会所から眺めるための庭と思われる。
当庭園は戦国武将の庭の中(朝倉氏遺跡庭園・北畠神社・旧秀隣寺・高梨家庭園など)でも最も雄大で雄渾な石組みの庭である。ただし戦前に多くの石が抜き取られてしまったが、以前は護岸石や橋石が残されていたが、現在失われてしまっているのが惜しまれる。
京極氏の系図:『乱世を生き抜いた近江の雄〜京極氏の足跡を訪ねて〜』滋賀県教育委員会より
鎌倉・室町時代の京極氏
 京極氏は宇多田天皇を祖とする近江源氏佐々木氏の分流で、鎌倉時代中期(1241年)佐々木信綱の四男氏信が、北近江の愛知川以北六郡と柏原の館を与えられ、京都京極高辻に屋敷を構えて、「京極氏」を名乗ったのに始まります。
 鎌倉時代は、近江守護佐々木六角氏の分家にすぎませんでしたが、南北朝の内乱で京極導誉の活躍により、室町時代になると六角氏を凌ぐ勢力を持ちました。それは、山名、赤松、一色の各氏らと共に幕府の軍事力を担う侍所の所司に任ぜられる四職家として中央政権で重きをなし、さらに北近江三郡のほか、、飛騨・出雲・讃岐の守護職を兼ねていたことに象徴されます。また導誉から五代後の持清は、1469年近江一国の守護に任ぜられ、京極氏の勢力を伸張させました。
◆戦国時代前半の京極氏
 鎌倉・室町期には中央政権の立場てあった京極氏ですが、戦国時代の幕開けとなった応仁の乱(1467)
以降は、北近江に本拠を構え、独自の権力体系を構築して、戦国大名として歩み始めます。当初、京極氏の北近江支配は不安定で、特に持清死後、その子の高清と政経が対立し、これに各家臣団一族の争いも加わり混迷を極めました。しかし、1505年の日光寺の講和によって、高清が勝利して上平寺館を拠点に安定した政権が生まれた。
◆浅井氏の台頭と京極氏
 1523年高清政権を補佐する上坂信光の専横に対して、浅見氏・浅井氏・三田村氏・堀氏家臣のクーデターです。家臣たちは高清の長男・高広を新当主として推しますが、上坂氏の推された次男・高慶(吉)との対立を深めます。この乱により、上平寺館は消失し廃絶したと考えられます。
 一方、京極氏家臣団の中からは浅井氏が台頭し、浅井亮政は小谷城を本拠として次第に家臣団の盟主とされるようになります。亮政とその子久政は1550頃まで、京極高広を北近江の守護と認め「御屋形様」と呼んで、その政権を尊重しつつ戦国大名化をはたしていきました。1560年浅井長政が家督を相続すると、京極政権の姿は記録上から消えます。
◆その後の京極氏
 その後、京極氏は高吉の系統から出た高次・高知兄弟によって再興されます。兄弟は秀吉・家康に使えて巧があり、丸亀藩・多度津藩・宮津藩・峰山藩・豊岡藩の五つの大名家として繁栄いたします。
 
京極氏系図(PDF)
出典:『京極氏の城・まち・寺』「京極氏の歴史」 市立長浜城歴史博物館 太田浩司

館跡方面からの全景

山畔の石組みと出島中央にあるランドマークの石組み

池泉東側からランドマークの石組みと山畔石組みを見る

山畔石組み:中央部にある三石が滝組でその下部にある石が水別石と言われている

館跡から見た中島石組み(左手前)と出島護岸石組み

排水路用護岸と主石を見る

山畔部と護岸の石組み:

館跡西側から山畔石組みの景

京極氏一族の墓
なお、徳源院にある京極氏墓所にある多くの宝篋印塔はここから運ばれたとも言われている。
詳しくは徳源院庭園 参照
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