織田家  重森三玲作の豪快な石組と繊細な棒状敷石の洲浜 昭和32年          
愛媛県西条市  非公開
伊予の青石をふんだんに使った洲浜が庭園の四周を取り巻いている。この事だけでも驚嘆に値するのであるが、石組が型にとらわれていない自由な形をしている。その理由は当家が今治市のおられたときの旧庭にあった四石に起因するのではないだろうか。重森は愛着のあるこの石をテーマの中心に据えて石組をすることになった。重森は、先ず個性のある四つの巨石を据え、その周りに伊予の青石を添えたであろう。そのためか従来の既存概念の造形から離れた自由な形に共感を覚えるのである。
 背景には四国の霊峰として轟いている石槌山が見えるが、屹立している巨石は石槌山を象徴しているであろう。

 なお、この庭を初めて訪れた時は大変びっくりした。このような剛毅な庭が人知れず存在することが奇跡のように感じたのであるが、更にこのように美しく管理されていたことには二重の驚きであった。
 当家では毎日苔に水よやり、大事に慈しんでいるとのことであった。

洲浜と豪快な石組み

全く贅沢と云える洲浜である。剛毅な石組みの背景には霊峰石槌山が聳えている。

このような抽象庭園とも云うべき庭がひっそりと佇んでいた。

石組みの荒々しさを抑えるがごとくに、緑の苔が寄り添っている姿が美しい

二階から俯瞰した庭園

洲浜の美しさ

伊予産の青石と云っても緑がかったり、紫がかったりでグラデーションが美しい

日本一贅沢な洲浜形敷石。今後このような造形は作ることは不可能だ。

蓬莱山に向かう舟石

当家には重森がしたためた書があるが、先代の御当社が巨人であることの故であるが、旧庭の巨石であることからして性格的にも大らかであろう人柄が偲ばれる。
棒状石による敷石について
この意匠は産出量が限られている材料のため特殊な場合にのみ採用された

この石を敷石として初めて採用したのは、同じ西条市の岡本家である。昭和32年の2月であり、織田家より2カ月早いことになる。岡本家では公道より庭園への道の敷石として採用されたが、織田家は庭園の洲浜の意匠として採用された。

小河家(重森作・S35)豪華な茶室の路地として採用

北野美術館(重森作・S40)回廊を兼ねた三重の洲浜模様に採用
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