越智家 重森三玲がイサム・ノグチを指導した茶室「牡丹庵」と露地 昭和32年(61歳)
愛媛県西条市氷見   非公開
 越智家は石鎚山系の清冽な水を利用した酒造業を営んでいる旧家である。
詳しくはhttp://www.ishizuchi.co.jp参照
氷見は聖山・石鎚山への入り口に当たり交通の要所でもある。また瀬戸内海にも面していて海の幸山の幸に恵まれた場所である。
重森は当地に本格的な茶室と路地を作った。

露地
霊峰石鎚の連山を象徴した石組と瀬戸内海に浮かぶ平市島からなっている。洲浜は瀬戸内海の海岸線を象徴している。
切石延段
玄関にある切石の延段は桂離宮の真の飛石を参考にしているのではないか、と思われる。
蹲踞
鎌倉中期の宝篋(ほうきょう)印塔の笠部を倒さにして、立ったまま用いられる桃山期の様式
茶室
桂離宮をヒントに作られているデザインが随所に見られる。重森は当家で試みた、それらのデザインをその後の書院や茶室でも応用している。例えば明かりとりや襖のデザインや障子の腰板のデザインなど。
イサムノグチとの交流
 イサム・ノグチはパリのユネスコ本部の庭園を作るに際して重森三玲から阿波の青石を選定するように薦められ、重森と80石を選択した。そのとき重森は四国の旧阿波国分寺、保国寺の豪快な石組みを案内した。更に茶室の作り方を愛媛県西条市の越智家で教え、既に出来上がっていた高松市の増井家の茶室と露地を案内した。写真は全て越智栄一氏が50年前に撮影したもの。そのネガを越智家から提供いただいた。

▲蹲踞より石鎚連山を望む

▲石鎚連山より牡丹庵を望む

▲越智家座敷にて重森三玲よりの講義を受けるイサム・ノグチ 1957/4/18(越智信男氏提供)

▲手水鉢は鎌倉中期の宝篋(ほうきょう)印塔の笠部を倒さにして、立ったまま用いられる桃山期の様式

▲石組みは石鎚連山と瀬戸内海の洲浜、西条市沖合いの島の様子を現している

▲夕暮れの石鎚連山(越智信男氏提供)

▲瀬戸内海に浮かぶ平市島(越智信男氏提供)

▲石鎚連山を眺める外腰掛
 
▲桂離宮「真の飛石」           ▲重森のオリジナルである切石の延段(最も初期のもの)
 写真右の越智家の飛び石は桂離宮の真の飛石から啓発を受けたものと思われる。切石の延段はは重森庭園の重要な要素になるがその原点は越智家にある。

▲牡丹庵より手水鉢を望む(丸窓は円山公園にある西行庵を模した)
 躙口から垣間見る景色は、まさに茶席の景色である

▲牡丹庵の躙口と連子窓でその上が日月星の小円窓下地窓

▲越智家の牡丹庵の小円窓は桂離宮の笑意軒からヒントを得たのであろうか

網干模様は修学院離宮の中の茶屋からのヒントからか。このような模様は増井家の障子の腰板や旧重森庭園の欄干に、更には小河家の竹垣のデザインにも応用された。

修学院離宮中の茶屋

▲大胆なデザインは牡丹庵に因んだ白牡丹の花びらと銀色と青色の市松模様

笑意軒の襖模様(雲海を象徴)

▲銀色(現在は酸化して黒味を帯びているが)・青色・茜色の市松模様

上記写真の反対側の意匠は桂離宮の松琴亭の襖にヒントを得てるが斜めに切り取ったり、色を鮮やかにしたりの変化を与えている。

▲書院の襖

▲桂離宮の松琴亭の襖
(中央の二枚の襖は鮮やかな色彩であるのは常時襖が開かれ手前の襖に覆われているているため)

竹の節の模様を活かした牡丹庵の廊下

修学院離宮・上の茶屋(隣雲亭)

円窓を半分開いた状態であると、外の一部しか見えないため茶席の景色として感じられる。上記にも記したが躙口や連子窓からの局部的な景色はまさに茶席の風景である。

一方、窓を全部あけると茶室周りの全体の景色が見渡せることになり、書院の景色を楽しむことになる。

以上のことは、重森の著書『庭 こころとかたち』のP182に、当牡丹庵の例を示しながら、以下のように期している。
「私は西条市の越智氏の牡丹庵の二畳台目の席を作った時、床に円窓を作って見た。・・・京都では高台寺の時雨亭や、西行庵の皆如庵にもある。牡丹庵の床の円窓庭、障子を二枚開きとして、全部解放した時と、半分開いた時と、背後の茶席の景がまったく違って見えるように工夫した。・・・

【茶道雑誌、昭和34年10月号掲載、庭園暦覧抄より】
点前座の茶道口(花頭口)の側面に、水屋の下半円窓の一部が入り込んでいるのも、景と実用とを兼ねた三玲の創作で茶道口の外へ続いています。そこを左に障子を開けて入ると六帖の水屋であり、縁の調子も面白く出来ています。そして、水屋の道具が直ちに取れるような戸口を作って、景と実用とを兼ねる構成にしています。

▲刀掛石と塵穴

▲砂雪隠まである

▲牡丹庵

▲重森の筆による
 「閑事」は広辞苑によると「急を要せぬこと、実生活に役立たないこと、無駄なこと」と、あるが「忙中閑あり」で、忙しいときこそ一服してゆとりを持つことを薦めているのではないか

▲越智家座敷のイサム・ノグチ、増井夫人、重森三玲(越智信男氏提供)

▲越智家露地の重森とイサム・ノグチ(越智信男氏提供)

▲かつて越智家にあった四方仏の名品(越智信男氏提供)        

重森三玲の庭「牡丹庵」の解説
作庭年月:1957年(昭和32年)三玲氏61
着手:昭和32(1957)39日 完成:同年727
建築:山下一雄 壁:佐藤嘉一郎 庭園:野口信一他  面積:約66(218u)

  愛媛県西条市氷見は重森三玲氏の奥様の出身地である関係で、この地に三庭しています。(越智邸庭園《旭水庭》岡本邸《仙海庭》越智邸《牡丹庵》)最初はただ旧庭の一部を改造する予定であったが、家の改造から、茶席の新設、路地の作庭まで行われました。
三玲氏のこの庭に対して作庭意欲をうかがえるのは、茶道雑誌(昭和34年10月号)掲載の庭園歴覧抄によりますと、「建築とか庭園のごとき、アトリエが作者の方になくて、現場そのものがアトリエである場合では、作者を生かすものは主人そのものであり、従って主人の感覚そのものが直ちに作者に影響するものである。主人と共に、私の茶の湯に対する革新的な自由な意図が充分に理解されたために、むしろ大いに賛意を表されたために、思い切った構成とデザインとの独創性を生かすことが出来たのであった。」と述べています。
  また「主人の理解によって、すべての書院も茶席関係の建築も、路地も全部、私の設計指導によって改造または新築されたがために、十二分に作者の意図を表現することが出来たし、その結果として自信のあるものが出来たことを嬉しく思うのである。」と述べています。
牡丹庵の改造部分

@     四帖半書院 四畳半茶席に改造
A    六帖書院  六畳水屋に改造
B    四帖半茶席 一部改修
C    納屋    六畳寄付及び道具部屋に改造
D    〃     腰掛待合新設
E    〃     砂雪隠新設

新設部分は二帖台目茶席
書院の中庭を草庵式に改造して路地としたものと、書院式庭を改造して書院式の路地としたものです。
先ず門を入ったところで、玄関にいたる(写真参照)間を切石敷とした(石の材料はもとの書院庭の長い切石材を適当にデザインしつつ小さく切って新しいデザインを施した、三玲氏はこのデザインは成功したと自負しています)門を入って玄関にいたる左側は建仁寺垣(現在は消滅、写真参照)玄関脇の猿戸を入ると書院庭です。この書院庭は旧来のものを改造して、書院式ながら茶庭、即ち書院式路地を主眼としたもので極めて閑静なものですその主は鎌倉時代の石造層塔の塔身の手水鉢で鎌倉時代の四方仏です。(現在なし)玄関を右に進むと六畳の寄付です。納屋を改造したもので、改造したものとは思われぬほど立派なものとなりました。改造は三玲氏の設計指導ですが、大工は京都で金閣寺再建等の棟梁大工、山下寅二郎氏によるものです。床は六帖だから一間半の中を一間床と、外に待合をつける関係で、残った部分に茶壷飾りの棚を作っています。
  一方は障子二枚、他方は細長い下地窓、そして一方は茶道口としたもので、茶道口を入ったところに道具部屋を作って丸窓をつけたものが見られます。天井は猿煩桟とし、軒内は白セメント張りで、待合に続きます。
 待合はいうまでもなく正客以下の役石を本格的に打ち、その裏横が砂雪隠です。待合から一歩外へ出ると桃山初期の紹鴎頃まであった石組のある書院式の庭と、飛石本位の路地とが一緒であった表現構成をとっています。待合から直ちに霞敷石をうち、中門には独創の乱れ四ツ目垣(現在消滅)を作って、作って、実用と景観をかねています。
  中門には乗越石と客石、亭主石もその両側に配し、それから飛石を打ち、中途で物見石を右側に配し、右曲して台所に通ずる飛石が続くが、その途中で見返石を打って、屋敷外の最も美しい風景の見られる場所を作っています。もとの飛石に帰りつつ、茶席への飛石に進むと、ここが二帖台目の新築された席で、牡丹庵に因む軒内が真紅で意表をついている。この軒内は席の桧皮葺の屋根を深く出して、軒内の中で手水を使うように配慮した構成をとっています。
 そして、この手水鉢は鎌倉中期の宝きょう印塔の笠部を倒さにして水穴を掘り、立ったまま用いられる桃山期の様式をとり、しかも軒内で手水が使え、雨天や雪の日も差し支えなく、軒内の景観としても一層美しい構成ができています。
  次に、北部に大徳寺垣、東部に桂垣を作っています。これは、多少の創作を加味し、施工は河野伊三郎、前田彦三郎、河野信一諸氏の何れももベテラン揃いで仕上げも美しく出来上がっています。(現在消滅)
 いよいよ二帖台目のにじりを席内に入ると左側に台目床があります。この床は京都の丸山公園にある西行庵の席のように、床中に円窓を設け、墨跡やその他の掛物を掛けるときは壁屏風を入れて普通の床のように見せ、花の時は円窓の中柱の花釘に花を掛けられるようにして、この円窓には障子二枚を入れて、時には障子半分のみを開けた半円窓ともし、外の景色が床の中に入って来るようにしています。
  突き当たりは奥の四畳半が一段高くなっていて、そこに小襖二枚を入れ、市松模様で思い切った表現をしている。又、にじり口の上は連子窓でその上が日月星の小円窓下地窓で、その大小やら木舞に変化を見せています。また、点前座で別に変化もないが、このあたりの壁面には、壁の地模様に苦心した結果、非常に美しいものが出来ています。これは、左官、佐藤嘉一郎の努力によるものです。
  点前座の茶道口(花頭口)の側面に、水屋の下半円窓の一部が入り込んでいるのも、景と実用とを兼ねた三玲の創作で茶道口の外へ続いています。そこを左に障子を開けて入ると六帖の水屋であり、縁の調子も面白く出来ています。そして、水屋の道具が直ちに取れるような戸口を作って、景と実用とを兼ねる構成にしています。
  玄関から入る戸口も、網干模様による戸で美しい構成を見せ、入ると中廊下の両側は色彩的に創作した市松模様のデザインに、同じく創作の引手も入れて、近代感覚を表現し、入った四畳半の席は旧書院のまま改造して左角の壁面に遠州下地窓を作り、上に幅物を掛けたり花釘も特殊な打ち方をして茶の湯の美しい成立ちを考え、奥の十帖書院との間には一間半二枚の襖を入れて、下を湊紙の腰張として、上部を白牡丹の思い切ったデザインの市松としています。このデザインは、何れの時代の襖にも出て来ない抽象的な銀と空色との市松デザインで、いうまでもなく牡丹庵のテーマを生かすための創作です。
 そして、銅と銀と半円月の雲のかかった引手も大きく作って入れています。三玲のデザインを金工家の小林尚a氏が努力製作されたものです。

最後に、三玲は高松の増井家や、福山の桑田家と共に、この牡丹庵が建築と庭を一緒に完成した事は最も理想に近いものとなったと述べています。

【茶道雑誌、昭和34年10月号掲載、庭園暦覧抄より】

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