平城京東院庭園  日本庭園の全てのが揃っている 奈良時代  池泉回遊式
奈良市佐紀町(平城宮址内)  電話:0742−34−3931(奈良国立文化財研究所)
  当庭園は余り知られていない。それは昭和42年に発掘され、埋め戻しその後復元され平成10年から一般公開されるようになった、から。しかしその内容はすばらしく、その後の日本庭園の基礎になっている。「庭園は京都」と、思われがちであるが、この他の庭園も合わせて拝観すると「日本の庭園の源流は奈良から」がよく理解できる。今後更に多くの庭が発掘されるであろう。またこの時代の庭園は新羅の雁鴨池、唐の大液池などの影響を直接受けているので、これらの庭園と合わせて考察する必要がある。
  さてこの庭は750年頃の天平時代に作られた。当初は直線の多い池であったが、その後の改造で出入りの多い汀線の池になった。庭の構成は池の中央に中島があり、宴を催す客殿のある出島、それと須弥山石組みのある出島により構成されている。
この庭園のポイントは
@最も最新の思想として極楽浄土の思想が既に奈良時代に入っていたことが示されている。
A反り橋、平橋は平安時代の寝殿造りからの影響ではなく、その源流は中国の極楽浄土思想からの影響と思われる。日本庭園には反り橋が多く用いられる(永保寺、苔寺、金閣寺、銀閣寺など)
  この庭園を現代の目で見たらどのように移るだろうか。このような抽象芸術ともいえる庭園を見ると、庭園は単に自然を縮小したものではなく、理想の世界を抽象的なイメージで再現したものだ、と見えないだろうか。自然そのものは回りに溢れている、それを箱庭的に縮小コピーしても自然に負けるに決まっている。となると、庭園とは自然のポイントを抜き出して、新しい理想の世界を作り出したもの、となる。

▲宴会の行われる主殿とテラス
 玉石が全面に敷き詰められきれいな汀線が描かれている。所々にある石はやや小さめに見えるが、それは玉石が本来のものを保存するために数十センチメートル高く改築されているからだ。

洲浜と中島

▲出入りの多い汀線
  抽象化された自然の風景は現実よりリアルに見える

デフォルメされた出島

▲磯をデザインした石組み  これでも十分に美しいがもう数十センチ石を持ち上げればすばらしい!

▲全庭が洲浜で覆われている

抽象化された洲浜

出島に組まれた石  重森の松尾大社を彷彿とさせる

中島は建物に向かって入江が作られている

▲平城宮跡東院庭園 須弥山岩組(迎賓館側からの景)
  須弥山と思われる石組みがある。何の意味もなくこのような石組み群があるはずもない。宮廷のど真ん中にあり、外国の要人を接待する場所なので、当時の最先端の物語が再現されているに違いない。屹立した石は刀の切っ先のような形は平安時代、鎌倉時代の庭園に見られる形である。つまり極楽浄土の思想を反映した庭園と思われる。

▲須弥山石組みと反り橋(迎賓館側から)

▲反り橋から須弥山石組みと汀をみる

▲洲浜、岩島の意匠

▲現在の園路(下には曲水がある)から主殿と平橋、反り橋(平橋に直交しているのが特徴)
平等院、毛越寺、白水阿弥陀堂、称名寺では反り橋と平橋は中島を挟んで直列に架けられている

曲水
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