沿革
山田家の由来については、約一万点の古文書などから明らかである。時代ごとに対応して繁栄した内容を記す。
@概略
戦国時代、北信濃は上杉方の豪族、高梨氏の支配下であったが、豊臣秀吉の時代に、高梨氏は上杉に従っての会津に転住した。その後江部は松平忠輝領、堀直寄領(飯山)など変遷して、幕府直轄の天領になった。江戸時代初めに、武田方の信州高遠の戦国浪人だった山田氏が、領主の勧農政策もあって今の江部村に帰農し住み着いた。そのころは、江部村の南部は千曲川の遊水地帯でたびたび洪水に見舞われ、大変に難儀をした。以後、山田家は開拓地主として、また水害地帯の土地を集積し、元禄期には質地地主経営が成立し、以後成長を続けた。
A米穀商人
このころから山田家は米商人としての存在価値も増してきた。と言うのは、幕府や領主としては天領の中野から年貢米を江戸まで運ぶのにはあまりに不経済なので、年貢米を金に替えて江戸に送るのが最も簡便であった。そのために、山田家は年貢米を換金する商人の役割も担った。中野の南には千曲川を使った運輸で栄えた商都の小布施があり、また須坂藩、或いは善光寺も米の重要な消費地であった。
B「延徳(えんとく)田んぼ」救済の土木工事
山田家としても稲作の面積を広げて米の収量を増やす必要があり、屋敷の南に延々と広がる遊水地を少しずつ干拓しながら、その一方、水害で困窮する農民が手放す土地を集積し、所有地を増やしていった。その間にたびたび大洪水に見舞われ、山田家の家屋敷は少しずつ扇状地の上流に向かって移動した。今は「延徳(えんとく)田んぼ」と呼ばれ、善光寺平でも有数の米作地帯になった。ただ、延徳田んぼの米作にとって、ネックは千曲川の増水に伴う洪水であった。延徳田んぼは、南北に流れる千曲川の東に広がる、もともとは遊水地なので、大水の度に稲作は大打撃を受けていた。ことに、弘化4年(1847)の善光寺地震の後は、水害が恒常化した。
それを解決するためには、北に向かって流れる千曲川の水の流れを停滞しない様する必要があった。昔は、千曲川は延徳田んぼ遊水地を通って、今の中野の市街地の西を北に向かって流れていて、飯山市蓮(はちす)あたりで、現在の千曲川の位置に流れ込んでいたと。その後、夜間瀬川の氾濫原野が洪水のために徐々に広がり、中野市街地の北で千曲川がせき止められて、ある時を境に、現在千曲川が流れている中野市立ヶ花から飯山市蓮の流路が形成されたものと思われる。そのような訳で、現在の千曲川は山狭を縫うように流れていたのだが、水はけが悪く大水の度に上流の遊水地(いまの延徳田んぼ)が、洪水に見舞われていた。そのために、千曲川と延徳田んぼの間に築堤し千曲川からの洪水の逆流を防ぐこと、さらに立ヶ花から下流の千曲川の流れを速やかにするために、曲流を直流に流路を変えるという大工事をする必要があった。幕末から明治初年にかけての大規模な土木工事の記録が山田家に残っている事から、山田家はその工事を中心になって担っていたと思われる。
C文人墨客との交流
米の収量が増えるに従い、余った米を効率よく換金する必要が出てきて、江戸中期には酒造りが始まり山田家は益々、家産を増やしていった。文化、文政の江戸文化爛熟期には、北信濃でも江戸の文人との交流があり、7代目の山田庄左衛門顕孝(松斎)は江戸の亀田鵬斎や京都の頼山陽と交流があった。松斎は漢詩を学び中野で「晩晴吟社」を興し、また農学にも励み「経典穀名考」を著している。これ以降、山田家は繁栄を続け、いまの庭園や家宅の基礎を築いたものと思われる。尚、松祭に関する資料は、中野市指定文化財となっている。
D幕末以降
明治維新の廃藩置県後に、取り壊しにあった飯山城から得た、と伝えれれる。明治維新に中野騒動があり、家屋の殆んどを焼失{この騒動の頃も中野代官所(中の県庁)と山田家は関係が深く、一揆の狙い撃ちに遭い、三棟の蔵が残っただけ}。明治以降も、土地集積を続ける一方、銀行や横浜生糸貿易などへ積極的に投資をしていった。
庭園
何と言っても三尊石である、その大きさ、質、バランスどれを取ってもいう事なし。材質は須坂の雁田石からの物である。
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