四方家の庭 非公開 |
京都府 |
重森は約200庭を作ったが、殆んどは誰が見ても重森である、との作風である。唯一の例外といえるのが四方家の庭である。なぜ小川治兵衛風の作品であるかは謎である。以下の問題点の整理を列記する。念のために付け加えるが、全てが小川治兵衛風というのではなく、鶴島などは白州が敷き詰められ、坪庭は完全に重森の作風である。 @第七代小川治兵衛が亡くなったのが昭和8年12月2日。設計図が出来ていたが、施主(先々代の卯三郎氏)がこの案に不満あったか、または小川治兵衛は亡くなったが、その設計図に基づいて重森が作った。 A重森が当家の庭園を作り始めたのが昭和9年6月13日、設計図提出は7月17日。 B重森は当主と度々巨石、植栽、灯篭などを買い付けに行っている。 C昭和10年年末に一応の完成。 D昭和11年年初より「日本庭園史図鑑」の実測調査、文献調査、原稿執筆と多忙を極める。 憶測で議論を進める事が出来ないが、推定として考えられる事を列記する。 @第七代小川治兵衛風の作風は一世を風靡していた。そのため施主が小川治兵衛風を好んだ(作者が重森に代わっても自然主義的な庭を求めた)。 A重森に発注されたが、設計図を始めかなりの材料が小川治兵衛好みで用意されていた B重森の作風は確立されていなくて、時代を反映して小川治兵衛風であった。 C重森の作風が完全に確立したのは「日本庭園史図鑑」により全国実測以後である しかし、重森の作風は、この庭を作る昭和9年6月以前にも確立していたとも考えられる (現在判っている庭園だけでも以下のようになる) @大正13年 生家の庭 大仙院風の枯山水 岡山県上房郡吉備中央町賀陽 A昭和3年 伊賀氏庭園・枯山水 層巒庭(そうらんてい) 岡山県上房郡吉備中央町賀陽 B昭和4年 西山氏庭園・枯山水 旭楽庭 岡山県上房郡吉備中央町賀陽 C昭和9年 春日大社 三方正面七五三磐境 奈良県奈良市春日野町 時代を映す庭園 上記のごとく推定の域が出ないが、この庭園は二人の天才が瞬間的に遭遇した痕跡、とも言える。 今後の研究を待つ。 |
▲山を背にした段丘を利用した広大な洋風日本庭園(約400坪=1320u) |
▲母屋の坪庭 当家で最も重森らしい空間 一直線に7石が並び、笹が坪庭を対角線状に一筋植えてあり、それに直交するように、白砂と苔で模様をつけている。坪庭の原点ではなかろうか。 |
苔地に横二本線は小笹の線状痕、直交する右下がりの線は苔地と白砂の境界線か |
▲真横から見た石組(右側の5石) |
▲平面図 右斜め下が苔地、反対側が白砂であった |
▲滝は自然石風の丸い石により組まれている。重森としては他にこのような滝組が無いので興味が湧くところである。滝の前を一本の巨石による橋が架かっている。滝壷から池に掛けては自然な風合いに石が配置されている。第七代小川治兵衛の平安神宮、丸山公園、慶沢苑風だ。 |
▲自然石による滝組 |
▲滝口から池への流れ |
▲亀島は伝統的な手法による |
▲鶴島は創作庭園で重森の面目躍如。この島は白砂が敷き詰めれれていた。 西芳寺(通称苔寺)の島は白砂が敷き詰められていた、と「作庭記」に記されている。 |
▲巨大な船着き石と沢渡り |
▲池の下手には曲水が作られている。護岸の石は大きく、流れには小石が自然風に撒かれている |
▲手水鉢の窪みも自然のものを採用 |
▲晦庵外観 ▲晦庵内部 |
▲舟着き石手前には仙洞御所風の小田原石 ▲汀から池の底までを小田原石を敷き詰める |
▲まぐろ石による園路 ▲腰掛け待合前は豆石を縦にして平行線に |
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