禅寺の庭
禅宗が鎌倉時代に宋から伝わる経過と、禅庭園の発生についてまとめる。特に西芳寺については資料がが多く残っていて、鹿苑寺、慈照寺などへの影響が大きいので、庭園形成の背景について引用文を紹介する。さらに龍安寺などの白砂と石のみの枯山水庭園発生の時代背景について重森完途氏の文献を紹介する。
1、禅宗の祖師と禅庭園
西暦 時代 政治 庭園 栄西
(1140〜
1215)
道元
(1200〜53)
蘭渓道隆
(大覚禅師)
(1213〜78)
無学祖元
(仏光国師)
(1226〜86)
夢窓疎石
(夢窓国師)
(1274〜1351)
1140
生誕
1168
1187
1回目入宋
2回目入宋
1192




頼朝・鎌倉幕府開く 帰朝
1200 寿福寺 生誕
1202 建仁寺
1214 栄西に会見 1213生誕
1215 没(75)
1219





源実朝暗殺
1223 北条泰時 入宋
1226 生誕
1236 興聖寺
1246 永平寺 博多来朝(33)
1247 上洛→鎌倉
1253 建長寺 没(54) 建長寺(40)
1261
1267
東光寺 スパイ説で
第一次逃避行
東光寺
1272 (〜1277) 第二次逃避行
1274伊勢に生誕
1278 没(65) 伊勢→甲斐
1279 来朝(54)
1281 弘安の役
1282 円覚寺 円覚寺創建
1286 没(61)
1313 永保寺 永保寺(39)
1327 1333鎌倉幕府滅亡 瑞泉寺 瑞泉寺(53)
1334 南北 建武の親政
1338

 



足利尊氏征夷大将軍
1339 西芳寺
天龍寺
西芳寺(65)
天龍寺
1351 臨川寺没(77)
1392 南北朝統一
1397 鹿苑寺 鹿苑寺
1408 足利義満没(51)
1246 応仁の乱(〜1477)
1489 慈照寺完成 慈照寺
1491 足利義政没(55)
1573 信長・足利義昭追放


2、
禅寺の創建
 禅文化が宋からもたらされて、禅寺院が相次いで創建された。当初は比叡山による妨害があり栄西、道元などの京都での活動は限定的であった。北条氏は鎌倉での禅の布教を積極的に支援し、宋風の新しい文化を創造した。その後、五山十刹の制ができ寺院は保守的になり応仁の乱後は没落した。しかし在野的であった大徳寺、妙心寺派は堺や京都の新興商工業者への布教が実り応仁の乱後成長、発展した。
西暦
鎌倉 京都
1191 栄西、帰朝後博多に聖福寺


1192 源頼朝、鎌倉幕府開く
1200 栄西 寿福寺を開く
1202 栄西 建仁寺(源頼家)天台・真言・禅の兼学






1219 源実朝暗殺され、1223北条泰時執権に
1233 道元 興聖寺→1243福井に永平寺 永平寺
1241
円爾弁円 東福寺(1236発願1273完成)
九条道家が大寺・興寺より命名
1253 蘭渓道隆 建長寺(北条時頼)
初めての宋風の専門禅宗寺院
1250年代に万寿寺が禅宗に改められた
1273 東福寺完成
1282 無学祖元 円覚寺(時宗)
浄妙寺禅宗に改められた
寿福寺禅宗寺院の規模に
1291 無関普門、南禅寺(亀山法王の勅願寺)
1315 大徳寺の前身、紫野小庵(大燈国師) 1313夢窓
永保寺
1325 花園法王、大徳寺を祈願所とす
1327 夢窓国師、瑞泉寺創建
1333 鎌倉幕府の滅亡、1334建武の親政、1338足利尊氏征夷大将軍  室町時代の始まり






1334 大徳寺、五山に列し南禅寺と同格
1337 関山慧玄、妙心寺(花園上皇の帰依)
1339 夢想国師 西方寺を西芳寺とす
夢想国師 天龍寺(足利尊氏)
1385 足利義満、相国寺創建。翌年、相国寺を五山に列するために、南禅寺を五山之上に昇格し、相国寺を第二位にした
1386 義満による五山十刹の制により、これ以降は五山の編成、順位は変動がなくなった
五山之上 なし 五山之上 南禅寺
第一位 建長寺     第一位 天龍寺
第二位 円覚寺 第二位 相国寺
第三位 寿福寺 第三位 建仁寺
第四位 浄智寺 第四位 東福寺
第五位 浄妙寺 第五位 万寿寺
番外 番外 大徳寺、妙心寺
1397 鹿苑寺(金閣寺)完成
1467〜
1477
応仁の乱により京都の室町幕府の衰退や鎌倉における関東管領の没落は五山派衰退。
これに代わったのが在野的な地位にあった大徳寺と妙心寺である
1489 慈照寺(銀閣寺)完成
1573 織田信長、足利義昭追放  室町時代の終焉



3、蘭渓道隆
(1213〜78)
@伝記(斉藤忠一「図解 日本の庭」を引用)(建長寺・円覚寺 週刊古寺をゆく 小学館より引用)
 
蘭渓道隆は中国四川省ばい江郡蘭渓村出身。13歳で出家の後、径山の無準師範、天童山の痴絶道中、台州の北けん居簡などに参じ、最後に臨済宗松源派の無明慧性に印加を得ている。そのころ南宋には多くの日本の留学僧が学んでいたが、京都泉涌寺の月翁智鏡(げっとうちきょう)にあって日本に興味をいだき、来日を決意した。彼が博多に到着したのは1246年で34歳のとき。到着後、博多の円覚寺や佐賀の円通寺にしばらく滞在した。翌年上洛するために円通寺を出て、途中大分県の九重町で滝に出会い「龍門の滝」と命名した。そして滝の正面に龍門寺を創始して、弟子の南岳をここに残して京都に発ったという。京都では月翁智鏡をたよって泉涌寺へ入るが、翌年の1247年鎌倉へ向かった。鎌倉にはすでに栄西によって臨済宗が紹介されていたが、道隆は先ず栄西の開いた寿福寺に赴き、宋への留学経験のある大歇了心(だいかつりょうしん)に参じた。その後、執権北条時頼にあった。二人の出会いは、その後の日本臨済宗を決定づけることになる。翌年より建長寺の創建に参画し、開山第一祖として入寺した。蘭渓40歳であった。その後時頼の崇敬ますます篤く、後嵯峨天皇の勅を受けて上洛し御前で禅の要諦を説いた。しかし彼の盛名を嫉妬してか、他宗派からの誹謗や圧力が激しくなり、ついには元寇のスパイ説まで飛び出した。彼は鎌倉を出て甲斐、信濃に二回にわたって都合11年間逃避行した。この間、彼が東光寺を初めとして龍門瀑の庭園を作った。この時点から日本の庭園が従来の神仙蓬莱式庭園や極楽浄土式の庭園から禅の思想に基づいた庭園が始まった。

A省行文と龍門瀑(斉藤忠一「図解 日本の庭」より引用)
  蘭渓は建長寺の建立に当たり、諸事講式や規矩(きく〜規則)を定め、多くの法語を発した。その中に『大覚禅師省行文』がある。雲水や参禅者の日常の心構えを懇切丁寧にといたもので、その中に龍門瀑のことが書いてある。長文であるので、その部分だけを意訳してみる。
  曹洞宗の開祖となった洞山和尚は、出家してから一度も故郷に帰らず修行をした。そのくらい熱心に修行すれば、必ず益があって悟りを得ることが出来る。青蘿(青いつた)だって喬木の勢いを得て千尋の大木となって聳えることが出来る。「紅尾(鯉)は禹門の波と競って、争って三級岩を超える」という。鯉魚さえも、禹門が切り開いた龍の激流に向かって、争って三段の滝を越えようとする。無情の青蘿だって、自らの石で高くよじ登ろうとする。鯉魚は滝を登りきって、大空を飛翔しようとする。
  ましてや人として、雲水は信念を篤くして修行に徹しなければならない。志を堅く持って、悟りを得ることが出来ないなどと決して思い患うな。修行は外に求めるものではない。自ら振り返って、自分のうちに求めるものである。

  庭園に龍門瀑のテーマを採用したのは蘭渓道隆が最初である。甲斐の国の東光寺がである。このテーマを引き継いだのが夢想国師で天龍寺、西芳寺である。以後、鹿苑寺、慈照寺などへと継承されていく。このようなわけで鎌倉・室町時代の庭園のメインテーマは滝になる。
     

B建長寺の心字形の池(斉藤忠一「図解 日本の庭」より引用)
  建長寺の方丈に面した池は1331年の絵図に書かれており、創建当初から築造されていたものと推定される。この池泉庭は昔から心字の池として知られている。禅宗庭園の池泉は「心」字形が基本であるとよくいわれ、心字池と称する池泉庭園は確かに多い。しかし何故に心なのかとなるとなかなか理由が見出せない。この建長寺の心字池を蘭渓道隆が作っていたとすれば、なるほどと納得ゆくことがある。
  蘭渓道隆が若くして修行していた時、かれは「心経沙弥」と称されていたという。日夜、般若心経を読誦していたからである。そればかりでなく、朝昼晩の三時の読経の時も、彼は般若心経を誦するのみで、他の経典は一切読誦しなかったという。そのわけを聞かれた彼は、「全ての経典は般若心経一巻に尽きている。また心経の262文字は一字に帰している。多く読めば読むほど、仏をだますことになる。しかし私は、皆さんに合わせて心経一巻だけは読んでいるが、本来ならば私にとっては『心』の一字で十分であると応答したという。
  このことを聞いた無準師範は径山寺に彼を連れて帰って薫育することになったという。
4、夢窓疎石(1274〜1351)
@夢窓国師の生涯と悟り(斉藤忠一「図解 日本の庭」より引用)
  1274年に伊勢の国で生まれ、1278年に甲斐の国へ移住した。すぐに母をなくし、9歳で出家を志し、18歳で東大寺戒壇院で受戒。19歳自ら道場を設けて100日間の懺法(せんぽう〜罪過を懺悔する行儀)を修した。満願の三日前に夢を見た。
  山中の禅寺に入っていくと、唐時代の禅僧である山と頭の二人が現れて、長老の部屋に案内をしてくれた。二人が長老に言うには、このものが特別熱心に聖像を求めているので連れてまいりました。是非聖像を与えてあげていいたい。長老は一本の軸を取り出して夢想に渡した。開けてみると、達磨の半身像である。それを巻いて、懐に入れた瞬間に夢から覚めた。
  この夢で夢想は禅宗に改修することを決心する。後に夢窓疎石と自ら名乗るようになったのも、この夢による。
  翌年、禅の修業のために甲斐を出て上洛するが、それまではずっと甲斐の天台宗の平塩寺で、ほとんど独坐のような修行を続け、仏典のみならず、孔子、老子、荘子から、はては世間一般の技芸才能をも広く学んでいたという。

  平塩寺は甲府盆地の南方に位置していて、東光寺とは直線にして18kmほどの距離である。いわば東光寺を拠点にして布教接化した蘭渓道隆の膝元である。東光寺のみならず、現在でも蘭渓が創始した寺として、塩沢寺、周林寺、円福寺などが残っている。このように夢想は蘭渓の縁の地にいたため、庭園などでも蘭渓の系統を指向したのではなかろうか。

  夢窓は紀州由良興国寺の法燈国師に参禅しようと甲斐を出発したが、京都で知人の奨めで建仁寺に入り、無隠円範(むいんえんぱん)禅師に参禅することになる。20歳であった。翌年鎌倉に下って、東勝寺に入り無及徳詮に就き、さらに建長寺に入って葦航道然(いこうどうねん)に参禅した。翌年は、円覚寺に移って桃渓徳悟(とうけいとくご)に参じ、更にまた建長寺に変わって痴絶空性(ちぜつくうしょう)に参じた。翌年はふたたび京都に戻って本師の無隠円範禅師再参している。
  夢窓がこれまで参じた師は全て蘭渓の弟子である。このあと夢窓は来朝した一山一寧(いっさんいちねい)に参ずることになる。一山には執拗といえるほど熱心に参ずるが、印可を得ることが出来ず、独坐の旅を続けて、陸奥の松島の松島寺(今の瑞巌寺)に参禅した。そして近くの天台の寺院で講説を聴聞しているうちに大悟した。その後、夢窓疎石は来朝僧の無覚祖元の印可を受けた高峯顕日(後嵯峨天皇の皇子)の印可を得ることが出来た。
  印可を得るまで、彼は建仁寺や建長寺などの僧堂に入って参禅修行を続けたのだが、それ以上に、僧堂を出でて旅を続け、自然の山野に独座して修行を続けた。そして悟りを得た。悟後も甲斐や美濃の山中に深く入って、悟後の修行とされる聖胎長養を続けた。夢窓国師にとっては、山野自然こそが修行の場であったといえよう。堂塔伽藍の中かで弟子たちを育成するようになっても、自分が悟りを得てきた坐禅修行の方法は、釈迦が指示した楞伽窟そのものであった。それが夢想国師の庭である。

  夢想の悟るまでの時間は相当長かった。彼は山野を跋渉し景勝の地を好み隠遁した。思うに、宋直輸入の禅ではなく、日本流の禅を独自に編み出した、ということではないだろうか。宋朝の禅をそのまま受け入れただけでは、現在の日本庭園は生まれなかったと思う。
 
A作庭の心構えについて
  国師は作庭について『夢中問答集』の中でおおよそ次のように述べている
  昔から今日に至るまで、築山を築き、石を立て、樹を植え、水を流して、庭を作って楽しんだ人は沢山いる。
それらの庭の風情は同じにしても、庭に対する心の持ち方はそれぞれ異なっている。
  自分が心から庭を楽しむことがなく、ただ家の飾りとして、他人から立派な住居だと言われたいために庭を作る人がいる。
  あるいは楽しみに執着心が強く、世に珍しいものがあると、これを集めて嗜好する。庭作りもその一つで、珍石奇木を集めては庭を作っている。このような人は、庭が持っている人の心を和ませる景趣を愛するのではなく、たんに珍石奇木などの俗塵を嗜好しているにすぎない。
  白楽天は、小池を掘って、辺りに竹を植えて楽しんだという。白楽天がいうには、竹はその中が空虚であるから、自分の友となり水はその本姓が清浄であるがゆえに、これを師としていると。世の中で、庭の好きな人が、白楽天と同じような気持ちであれば、この人は俗塵に染まらない人である。…………
  山河、大地、草木、瓦石、、これら全てが自分の本分と全く同じであると悟っている人が庭を愛するのは、外見は他の愛庭家と同じように見えるが、やがては庭を愛すすることを道心として、庭木や、庭石など四季に移り変わる景色の中で悟りに入っていく。そのような道人こそ、庭を愛する本来のあり様ということができる。
  だから庭を作って楽しむことは、悪い事でもなく、良い事だともいい難い。庭には損得がなく、損得があるとすれば、それは人の心にあると、語っている。

  禅僧が庭を作って染むことは、普通の人とは異なって、禅観の境として庭を作っている。理想とすることは、自分と庭の差別なく、一体となって悟りの世界に入ってゆくことだという。
  夢窓国師の作庭は、このような目的のためであった。池泉も龍門瀑も滝前の石橋も汀の苑路も、全てこの目的のためである。西芳寺の壁廊にも次のような偈頌(げじゅ)を書いて貼っていた。

  仁人は自ら是山の静かなることを愛し
  智者は天然の水の清らかなるを楽しむ
  怪しむ莫(なかれ)愚惷(ぐしょう)が山水を弄ぶことを
  只図る 是によって精明を礪(と)がんことを


  仁人と智者の庭の楽しみ方の違いはあるが、禅観の境としての目的は同じである。だから、私が庭を作って楽しむことを不審に思わないでほしい。私は庭によって自分の心の清らかさをさらにみがこうとしているのだから、という。
5、西芳寺庭園に関して
@洪隠山のいわれ、亮座主崇敬する夢窓国師(斉藤忠一「図解 日本の庭」より引用)
  中原親秀から西方寺と穢土寺の復興を懇願された夢窓国師は、喜んでお請けいたしましょうと答えた。自分はかねがね中国の亮座主(りょうざす)という人を崇敬していた。その人は西山という所に隠棲した人で、私も京都の西山(西芳寺ある地域をせいざんと称する)という同じ地名の場所に住むことが出来るのは、何よりもうれいことだと語った。



  亮座主は経論の研究家、数多くの門弟を抱えていた。ある時、彼は江西省の洪州に馬祖道一(709〜788)を訪ねた。馬祖は門下生800人といわれ、実質的な中国禅の創始者ともいわれる。亮座主が参ずると、「座主殿は経論を講じていると聞いているが、どのように講じているのか」と馬祖のほうから質した。座主は、「心をも講じている」と答えた。すると馬祖は心は、「心は工伎児の如くであっても、意は和伎者のようなものである。そんなことで、どうして講じていることを理解できますかね」と手厳しい。
  馬祖に突っ込まれた座主は納得することができずに退室した。
  そして丁度階段を降りようとした時、馬祖が「座主殿!」と呼びとめた。座主が思わず振り向いた一瞬に、座主は大悟した。座主は馬祖に拝礼して、自分の寺に帰ると、「自分がこれまで講じてきたことは、とうてい皆さんに真実を説いたものではなかったことが、馬祖に質問されてはじめて気がついた」。こういって亮座主は教塾を解散して、洪州の西山に隠棲してしまった。このことから夢窓国師は亮座主が州に棲した西という意味で洪隠山と名づけた。

A亮座主と坐禅石(斉藤忠一「図解 日本の庭」より引用)
  亮座主が西山に入って約300年後のこと。は陽の熊(ゆう)秀才という役人が西山に遊び、翠巌を過ぎようとしていた。すると岩石の上に、草葉の衣を着した僧が坐禅をしていた。土色の顔をしているが両岸は澄み、眉は長く伸び、髪は雪のように真っ白で、後ろに垂れている。あたかも石仏画のようであった。通り雨で濡れた眉がキラリと輝く。熊秀才は、このような所になぜ坐禅僧がいるのだろうかと思った。昔、亮座主という坐禅僧が西山に隠棲したという話は聞いたことがあるが、まさかその人ではあるまい。そう思った秀才は、輿を降りて、岩の下に近づき、「亮座主殿ではありませんか」と声をかけた。すると僧は黙って右手を上げ、東の空を指さした。秀才は思わず僧の指さす東の空を見た。雨上がりの真青な空があった。それから視線を僧に戻すと、僧の姿がない。岩の上に上って見ると、僧の座していた場所だけが雨に濡れないで乾いていた。

  この故事の意味は、無言で東の空を指しただけで、秀才に無を説きつくしたということとされる。指月の喩えがある。月を指しているのに、月を見ずに指を見る者がいる。亮座主が教塾を開いていた時は、説法すればするほど修行者たちは、熱心に亮座主の説法を聞いた。しかしそれは月を見ずに指を見ていたのである。無言の指東を秀才は指を見ずにすっと空を見た。その瞬間、座主は秀才に無を悟らせると共に天地一杯に広がって消えた。
  夢窓国師には一万余の弟子がいたといわれる。彼は非常に懇切丁寧に説法を続けてきたが、多くは指を見ることの思いであったかも知れない。それ故に、指東の一挙で説きつくした亮座主を敬慕していた。龍門瀑の前に建つ指東庵の名称もこの故事に因んでつけられている。禅は不立文字、以心伝心とされるが、指東庵はそうした夢想の指導精神を込めた建物であろう。

B龍渕水について
  上記坐禅石の横には湧水があって、井泉石組とされ龍渕水と名づけてある。龍の潜む深い淵を意味する。龍は春分に天に登り、秋分に地に降りて淵に潜むとされる。
  三月、桃の季節になれば、力を貯えてそれまで潜んでいた鯉魚たちは、黄河の支流にあるとされている鞏穴(きょうけつ)を出て、黄河を遡上し、一気に龍門瀑を跳飛して龍と化す。鯉魚たちが潜む淵も龍渕である。禅寺の方丈(本堂)に龍渕室と扁額されていることがあるのもこの意味である。法堂の天井に龍が描かれているのも同じ意味である。坐禅石と龍渕水が一緒にあるのはこのためであろう。

C西芳寺庭園の名称は「碧巌録」の「忠国師無縫塔」より
(斉藤忠一「図解 日本の庭」より引用)
  西芳寺の無縫塔、瑠璃殿、湘南亭、潭北亭、黄金池、合同船などの堂舎、池泉などの名称は「碧巌録」の「忠国師無縫塔」より名づけられた

  南陽慧忠国師は白崖山に住んで、40年もの間、山を降りなかった。その名声を聞いた唐の粛宗皇帝に招かれて、次の代宗の国師となった。慧忠がもう亡くなる頃の代宗皇帝との問答である。
  「国師よあなたが亡くなられた後に、私に何かこうしてほしいと望むことはあるか」
と、代宗は尋ねた。すると慧忠は、
  「私のためなら箇の無縫塔を作ってくだされ」
と答えた。箇の無縫塔(禅僧の墓)といわれても、代宗はどんな無縫塔なのか見当がつかない。そこで、再び質した。
  「箇の無縫塔とは、どのようなもか」
するとややしばらく間をおいて、慧忠は、
  「どうでしょう。お分かりいただけましたか」
と聞いた。代宗は、
  「いや、一向に分からん」
と答える。そこで慧忠は、それではこうしましょうといって、
  「私の弟子に耽源という者がます。よくこのことを知っているので、その時になったら、彼を召しだして聞いてくだされ」
と答えた。
慧忠が亡くなり、耽源が呼び出された。彼は、箇の無縫塔について次のように答えている。

  湘の南 潭の北
  中に黄金あり  一国に充
  無影樹下の合同船
  瑠璃殿上に知識なし

  湘江の南だろうと、潭江の北だろうと、東西南北、どこもかしこも無縫塔は宇宙一杯に存在している。その無縫塔は、全てが仏の黄金の世界にある。この世の全てのものは仏性という点では、凡夫も衆生もありとあらゆるものが、仏と共に一艘の船に乗り合わせているのである。仏の世界に入ってしまえば、あれこれの区別など全くないのだ。

  慧忠にとって、悟りとは宇宙と一体になって遍在していることで、そのことが解ってもらえたなら、それが箇の無縫塔であるということであろうか。

D廊下で結ばれ、反橋の架かった異国情緒の庭に朝鮮通信使が感嘆
  (田中正大 禅寺の石庭 原色日本の美術 小学館 より引用)
  1443年に朝鮮からの使節として、甲叔舟(しんしゅくしゅう)が来朝したが、ある日、西芳寺に遊び「日本栖芳寺遇真記并賦」を残した。このうちに「池形えい回してやや長く、ついに橋を作りてその腰を横絶し、もって池の東南に往来する者に便す。橋に因りて小閣あり、篇して邀月橋(ようげつきょう)という。これに登ればこうとして長鯨に乗りて溟渤にうかぶがごとし(橋の上にいると、まるで鯨の背中に乗って、大海原に浮かんでいるようだった)。」とか、「ここに於いては冠を投げ盃佩を捨てて、襟を開きて散歩す。」と書いている。邀月橋というのは屋根をもつ亭橋であって、渡るためだけでなく、憩うところでもあった。

西芳寺の邀月橋(ようげつきょう)と他の庭園の関係
  虎渓山永保寺に国師が25年前に作った無際橋といわれる反橋がある
  金閣寺の拱北廊(きょうほくろう)は龍門瀑近くにあった天鏡閣と金閣の間に架かっていた
  銀閣寺には龍背橋があった

E足利義満が西芳寺に坐禅する(吉川 需  枯山水の庭  禅院と庭園 日本美術全集 学研より)
  足利義満も、しばしば西芳寺を訪れて疎石の遺風に傾注しているが、ある秋の一日(1382年10月)には、道服着用して独り指東庵こもってひたすら坐禅に徹宵した。疎石の直弟子であった春屋妙葩は、後日この由を耳にして感涙に咽び、「西芳寺開基以来年を経、僧俗の西芳寺に遊覧する者は多いけれど、義満将軍のように坐禅のために来た者はなかった。未稀有のことである」といったという(『空華日工集』)。
6、禅寺における枯山水発生の背景(重森完途 枯山水の庭 日本の庭園3 講談社より要約引用)
  龍安寺、大徳寺、大仙院に代表される枯山水庭園は池があり、自然の滝がある庭に比べて分かりにくい。禅寺の最も重要な方丈に面した場所に何故、石組みと白砂だけの抽象的な意匠が出現したのであろうか。個々の庭園説明書には余りはっきり書かれていない。幸い重森完途氏の論文かあるので紹介したい。重森は日本庭園を池泉庭園と枯山水に分類し、枯山水の出現の背景を探ろうとしている。なお、この文章の背景には父親である重森三玲氏の著作があるので紹介する。「枯山水」河原書店 56頁

枯山水の訓詁学
  そもそも枯山水なる言葉は橘俊綱(1028〜1094)作といわれている『作庭記』の
  一、池もなくやり水もなき所に石をたつること。これを枯山水と名づく。
  水のない人の作った山水を「枯山水」といっていた。と定義し、さらにその読み方が、はたして「カレサンスヰ」と読まれていたかを種々の文献で考察している。例えば「フルセンスヰ〜古山水」、「カレセンスヰ〜乾山水」、「カラサンスヰ〜唐山水」などである。
枯山水の意匠の変遷
  前期の枯山水は池泉の意匠が主たる庭園であって、枯山水は、一局部として、言わば、つけたりのような位置にあった。このことは「作庭記」にも記されてるように、軽く作られた築山等に石を組んだ意匠が枯山水であり、しかも、その辺りには、やり水や池泉のないところであったを説明している。即ちこれらの意匠は、室町時代に頂点に達した後期の枯山水意匠と全く趣が異なっている、と力説している。………

  室町時代から江戸時代にかけての後期枯山水は、庭園の局部意匠でなく、全庭全てが枯山水である。作られている庭園の隅から隅までが枯山水に意匠する時には、石組みもさることながら、地割の意匠に力を注ぐ必要がある。何故なら、地割の意匠によって、庭園全体の姿、性格、内容、思惟の主張等につながってくるからである。
後期の枯山水は作庭記流の枯山水の伝統を否定しているのだから、このことについて言及している。
  「庭 てい」あるいは「堅庭 かたにわ」の意味は、広場であって、言うまでもなく、この広場は全く意匠が行われず、普通は、砂を敷くか芝草などに覆われた場所を指すのである。この広場は儀式や祭礼に使われる場所であった。だから作庭記にも六七丈、若内裏儀式ならば八九丈の広さを必要と記している。
  儀式用の庭には築山、野筋、石組は絶対に行われなかった。前期式枯山水は、意匠される場所とされない場所がはっきりしていて、意匠される所でも、水にかかわりない場所に石組みを主体にしてつくられていたわけである。

  これに反して後期式の枯山水は、かって儀式が行われた「庭」や「堅庭」のその広場に意匠を持ち込んだのであるから,前記からの伝統を全く否定していることになる。
  これは南北朝から室町期にかけて、主建築の前の広場、即ち「庭」で儀式が行われることがなくなり、建築内部で、儀式が行われるようになったため、「庭」としての広場が無用の長物化してくるのである。………
  そうした広場の儀式、やがて建築内の廂のあるところ、すなわち広縁が使われるようになり、遂には室内に入ってしまうのであるが我が国では鎌倉期になって漸く広場としての南庭が儀式の場として使われなくなり、特に寺院においてその傾向が著しく。そのために、「庭」としての南庭が狭くなってくるのである。
  ただ、狭くはなってきても、長い伝統としての広場であるから、その場所を廃止することはなかったのである。儀式が完全に室内に移行してしまった室町期においても、「庭」としての場所だけは残されていたのである。
  龍安寺の庭は、所謂山水の表現ではなく、当時隆盛を極めていた飾りつけと深いつながりがあって作庭されたものであるが、儀式広場としての永い伝統の場所に意匠されたという点で、まことに画期的な存在であると言ってよい。
  一般に、龍安寺庭園は一木一草を使わずに作庭された、まことに意表をついた作品といいる。一木一草を全く用いない思い切った意匠であるとも評価されている。たしかに儀式広場としての永年の伝統の場所に作庭した作品としては、意表をついたものであることには違いない。
  しかしながら、一木一草を全く意匠しなかった思い切りぶりと言うのは、逆な見方であるといってよい。伝統の儀式広場が使われなくなったので、当時の飾りつけの美意識庭園に持ち込んでみようとしたのであって、そのために、庭石のみを用いて、急激な変化を避けたものと考えてよい。寺院は慣習や、しきたりを重要視する社会である。もしその広場で初めての意匠に、干渉があれば、直ちに原状回復できるものとしての意匠でなかったのではなかろうか。そのためには到底、樹木や下草など、所謂山水としての素材を用いるところまで踏み込めなかったのではあるまいか。
  たしかに、飾付けの美を応用したのであるにせよ、永年の伝統ある広場であるから、時代の思潮や生活形態の変化があったにせよ、最初から完全に伝統否定というところまではゆかなかったものと考えてよい。
  広場の敷砂は、もともと儀式広場に用いられていたものであるから、それに対する変革は行わず、ただ十五石の石を配置するのみの決心で行われたと考えてよい。それも在来の平安期や鎌倉期に見られる巨石の石組や、蓬莱様式もとらず、ただひたすら比較的小さい石を配置することに力を注ぎ、若し社会的に否定されれば、直ちにもとの広場になる。庭樹や下草などを植え込んで一挙に山水にすることなど考えもしなかった事と考えてよい。
  龍安寺庭園に一木一草のないのは、このように考えた時に、あの場所に意匠された雰囲気や姿勢が最もよく理解されるであろう。
  無用の長物化した広場と、書院飾りつけの隆盛が期せずして交差した時であったとすれば、龍安寺庭園の意匠の根源が分かるわけである。

枯山水の意匠
  枯山水は、いわば「不立文字」のような内容を含んでおり、無言の肉声である。………
  伝統として自然の山水に、その対象の根源を求めた、それまでの庭園に対し、枯山水は水墨山水画を対象として、策定されたことがた特異な特徴となっている。
  対象が自然ではなく、絵画であり、しかもそれが北宋水墨画であるから、表現の内容が、自ずから抽象的傾向を帯びてくるのは当然であろう。水墨画自体が、写実的領域を離れ、心象風景を捜索する面が強く、枯山水もまたそうした面があったから、水墨画にその作庭の対象を求めたのは当然の帰結である。
  すでに記した、枯山水の作庭された場所が、形式的遺構としてのみ存在していた前庭広場であり、しかもそれが形式化すればする程、使用されない場所であり、狭くなっていたから、ここにに作庭をし、鎌倉期や平安期の内容と比肩し得るものとするためには、抽象化の道があるだけと考えたのである。
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  このことは水墨山水画としての山水図にも、枯山水の山水にも、ともども法身があることを感知していたことを示しているが、それは押板に仏画をかけるのと全く同様な行為であり、枯山水の作庭も、その観賞も、仏心の世界となっていくことを知らせているのである。
  このようになってくれば、儀式広場に作庭することも、ひとつの宗教的行為になるわけである。
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  幽玄の美と空白美が互いにつながりあって、枯山水の美を形成しているのであるから、在来の池泉庭園の美の主張とは感覚的に異なっていることが分かる。
  前述のように、枯山水に於いては、白砂は空白の空間であるが、水を秘めている。しかも、その水は鑑賞者にとっては青い渓流であったり、海岸であったり、あるいは深渕であったりもする。一個の石は水音の轟く滝であったり、あるいは山並みでもある。一本の庭樹葉、森であり、林であり、さらには原野の中にそびえる風雪に耐えた古木でもある。この様な形状が互いに絡み合い、自己を主張しそして空白と幽玄の中で変貌し続ける。枯山水の姿は、このようなところから浮かび上がってくる。
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