瑞泉寺 夢窓国師の修行道場  洞窟庭園 {へん界一覧亭葆光窟(ほこうくつ)は非公開}
神奈川県鎌倉市二階堂710  電話:0467−22−1191
  1327年夢窓国師によって開山。始めて多治見の永保寺に修行の場としての庭園を造った1314年から13年を経過している。西芳寺と天龍寺の龍門瀑の庭が出来たのが1339年であるから、それよりも12年前である。彼の代表的な庭園のほぼ中間地点での道場創りである。この地にはかの蘭渓道隆が建長寺を1253年に始めて作った禅の庭がある。瑞泉寺の庭はそれ以来74年後である。
  この洞窟から十八曲たどると山頂に至る。頂上にあるへん界一覧亭からは富士山、相模湾などが望め清々しい気持ちになるという(但し現在は入山できない)。このような景色は永保寺の景色であるし、瑞泉寺の12年後に作られる西芳寺の向上関から通宵路(つうしょうろ)といわれる四十九を巡り、頂上の縮遠亭から見る景色でもある。夢想国師が悟りの場として自然の風景を重要視していることが分かる。参考までに記載すると、フランスの修道院の始祖ベネディクティウスは修道院を作る場所は小高い丘や、見渡す限り視野の広がる高いところを選んだとされる。
  初めてここに来て私は感動した。禅の庭は修業の場{阿蘭若(あらんにゃ)}だという。西芳寺に始まる枯山水に関する案内書にはそう書いてある。石には龍門瀑、碧巌石、観音石、鯉魚石などの名前がついている。しかし、もうひとつピンと来なかった。ここ来て、あっこれか!で納得した。

沿革
  鎌倉における夢窓疎石(国師)は、二階堂の地に南芳庵を仮住まいとした。そして幕府の武将二階堂道薀の援助のもとに、瑞泉院(後の瑞泉寺)を創建した。道薀は疎石の幼児を過ごした甲斐の牧庄の領主であり、後年恵林寺を開いて疎石を招いたのも彼であった。1327年の「年譜」には「八月居を錦屏山(きんぴょうさん)に移し、瑞泉蘭若を建つ」とある。いわゆる修行の場を作り出したのである。ここは庭園というよりは洞窟と池を彫り出したものである。このことは「一覧亭記」によると疎石は「岩を穿ち地を平らかに」して寺を創め、「前峰後洞」………となっている。疎石の詩には
「前もまたかさなる山のいほりにて  こずえにつづく庭の白雲」
重なる山並みにとりまれ、白雲を庭の風物取り入れた庭のさまが頭に浮かぶ

▲山門への道  旧道の階段は磨り減って歴史を感じさせる

▲本堂裏手にある洞窟と池  
 本来は坐禅のための道場の洞窟が最も聖なる場所で、副次的にその前に方丈が建てられたのではないだろうか。建長寺も円覚寺も同じ構造だ。

▲これぞ元祖禅庭園。写真の天女洞と写真には写っていないが右奥に葆光窟(ほこうくつ)がある。
  岩壁には洞窟が掘られ、手前には池を掘り出している。写真上から水が落ちている。この水が創建当初からあったのなら、龍門瀑といえる。

▲火灯窓から天女洞を望む。お抹茶を頂きながら火灯窓から天女洞を望んだ、この時の印象は一生忘れえぬ記憶になるであろう。

▲葆光窟(ほこうくつ)なる座禅窟がある
写真は著作権上記載できないが、以下の本に私は撮影した写真が記載されている
「日本庭園をゆく」No28「夢窓国師の庭」P13 小学館 
▲葆光窟の採光窓 (ご住職のご案内で特別の拝観が出来た)

▲へん界一覧亭への道

▲十八曲辿るとへん界一覧亭につく

▲へん界一覧亭。余りにも有名な亭舎であるが、後世の庭園に決定的な影響を与える

▲へん界一覧亭よりの富士山

▲岩盤を穿ち中島を作る。岩庭そのもの

▲玄関

▲夕暮れの境内で秋明菊が凛と咲いていた
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