一乗谷朝倉邸跡庭園  これぞ戦国武将の庭
福井市城戸の内町  電話0776−41−2173
  福井市郊外にある一乗谷は朝倉一族が五代100年にわたって作った幻の都市、とでもいえようか。歴代の城主は京都から文化人を招き、さながらお伽の国のように栄えた。しかし1573年に織田信長に滅ぼされると、山岳都市は灰燼に帰し、全く人の目に触れることなしに眠り続けた。最近の発掘で庭園や武家屋敷などが復元され当時の面影が想像できる。奇跡的にこの時代の庭が化石状態で残ったのはここが山城のため、朝倉氏滅亡後はほとんど無人になったため、誰の目に触れることもなく残った。京都などでは一族の勢力が弱まると、そこの庭石は次の権力者に持ち出されてしまい、元の形のまま残ることが出来ない。このような例は平泉にある毛越寺である。平安時代の庭がそのまま残った。
  さて庭園であるが、いずれも「これぞ戦国武将の庭」と言え、このようなすばらしい庭が4箇所もある。戦国武将が質実剛健の言葉の意味が分かるような気がする。

安土桃山時代の前の特徴が非常によく表れた庭。
@湯殿跡庭園  :鶴亀蓬莱の庭。巨石が山すそにぎっしり
A諏訪館跡庭園 :驚くような巨石と上下二段式庭園
B朝倉館跡庭園 :平地にある館の庭
C南陽寺跡庭園 :朝倉義景は京都を追われた15代将軍義昭を招いて花見の宴をしたところ

▲湯殿跡庭園  山裾にある深山幽谷の滝、蓬莱連山に向かって鶴亀が向かっている


▲湯殿跡庭園
  鶴島の鶴は山側にある滝や蓬莱山に向かっている。亀頭石を中心とする亀島も同様に蓬莱山に向かっている。いわば客に向かってお尻を向けている。斉藤先生は「図解 日本の庭」では客を鶴亀の背に乗せて滝を遡り蓬莱山に誘うため、と解釈している。保国寺の亀もそのように解釈できる。

▲左から鶴島、滝

▲滝部拡大


▲三尊石


鬼頭石は南陽寺跡庭園の須弥山石とほとんど同じ石



諏訪館跡庭園

▲分厚い橋箱の時代の特徴だ  

分厚い橋と橋添石

朝倉館跡庭園  右側からの視点は実に重厚

左側からの視点


南陽寺跡庭園

▲朝倉館跡


▲永平寺  当館跡から車で約10分で永平寺に着く
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