浄瑠璃寺  平安時代  池泉舟遊式
京都府相楽郡賀茂西小  
沿革
  現在のように西側に阿弥陀堂、東側に三重塔を配置し直したのは恵信である。彼は摂政藤原忠通の子で、興福寺の別当を務め、浄瑠璃寺を興福寺の御祈所とした。1157年阿弥陀堂の屋根の葺き替え工事中に現在の位置に配置換えした。このときに庭園も作られたと考えられる。
阿弥陀如来に救われる構成
  現在の池は阿弥陀堂からやや離れているが、当初は阿弥陀堂の庇の下まで続いていたのではないか。九体の阿弥陀如来が収まっている厨子は扉を開けると、朝日が上るとその光線は水面で反射して黄金に輝く阿弥陀如来が拝めたのではないだろうか。
  大きめな中島が池の中央にあるが神仙蓬莱思想の鶴島、亀島ではなさそうだ。一般的には三重の塔の側の岸から反橋が架かり、中島から阿弥陀堂に向かって平橋が架かることになっている(近くにある円成寺、平等院、毛越寺、永保持などの例)。ここではそのような礎石が発掘されていないので、違った目的の島なのか、それともそれらの礎石は後世どこかに持ち去られたのであろうか。その理由は池の周辺には余りにも石が少なすぎるからである。
九品往生観
  浄土教の主要経典の一つ観無量寿経は、往生には九つの種類があると説く。それが九品往生観という思想。上品、中品、下品の三種類があって、三種それぞれに上生、中生、下生の三等級がある。これは往生者の生前の行い、信仰によって決まる格付け。最上位の上品上生では、阿弥陀仏はおおぜいの菩薩と来迎するが、最下位の下品下生では阿弥陀仏は現れず、往生者の魂を運ぶ金蓮華だけが来迎する。
  当阿弥陀堂にある、中尊は来迎印を結び、左右の4対ずつは上生印を結んでいる。阿弥陀堂は1107年に建立られたが、本堂というよりは九体の阿弥陀如来の厨子である、とのこと。

▲九体阿弥陀堂とくり石で出来た大島の荒磯(中央)と出島(手前)の景(寺院のパンフレットより)
九体如来像が残っている唯一の寺院(平安時代には約30寺院があった)。お堂と阿弥陀像は国宝

▲今回撮影した景色   雑草が茂り上記くり石による荒磯、出島が見えない。この庭の特徴は州浜模様にあるのだから、管理にご苦労されていることは重々承知のうえ、雑草の掃除を敢てお願いしたい。


▲秘仏の薬師如来が安置されている三重塔を望む

霞む出島と三重塔

▲紅葉に映える三重塔

▲中島の弁天社と荒磯風景


▲荒磯拡大
  当庭園は荒磯が有名なので参考のために作庭記の一部を添付する

▲北側より見た中島

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