鹿苑寺(金閣寺)  鎌倉時代 池泉舟遊式
京都市北区金閣寺町1  電話:075−461−0013
沿革
  西園寺公経、実氏親子が1200年代に作庭記風の庭園を作り、藤原定家も明月記で池泉が瑠璃色の美しさであることを記している。この鎌倉時代の庭は約110年後に足利義満が譲り受け、舎利殿(金閣)などの諸堂が作られた。この庭は龍門瀑、蓬莱諸島、岩島、池の形態などから明らかに鎌倉時代の特徴を示していると言われている。義満は庭園から建物にいたるまで西芳寺に範を取って作った。金閣はもともと池の中央にあり、龍門瀑付近から拱北廊と言われる空中廊を渡って入ったそうである。この閣の三階は床はもとより壁、天井と全面に黒漆が塗られている。このような仕掛けの中にローソクを灯すと、金色の阿弥陀様はあたかも万華鏡の中の幻想的な極楽浄土の世界にいるかのようになる。
龍門瀑
  この滝とほぼ同様の滝が、その名を示す天龍寺にある。ともに中国の故事にある「登龍門」の由来である鯉が、三段の滝を登って将に龍に化す様を現している。中国南宋よりの帰化僧の蘭渓道隆禅師が中国の故事にある登竜門(鯉が死を賭してまで竜になるべく努力するさま)にならって、人間が観音の知恵を得る(悟る)まで、努力をしなければならないことを日本庭園の形で教えている。このようなわけで鎌倉、室町時代は庭園のメインテーマが滝になるのである。  
坐禅石の発見  
 
龍門瀑の付近に銀河泉、巌下水がある。その付近に坐禅石と思われる巌(永保寺・西芳寺の坐禅石とそっくりの形状)がある。これを坐禅石と考える。ただ形が似ているから問題にしているのではなく、禅の要になることなので こだわって考えてみた。         

▲金閣寺が最もよく見える場所  不老長寿の蓬莱山に向かう亀
  鏡湖池には10個の島があるが亀島が5島、鶴島が3島ある。他の2島は芦原島と淡路島である。

 ▲ 龍門瀑         
鯉が飛翔した瞬間。
 なお、猿石と観音石は草木に覆われてしまっている。重要な故事に基づいて作った滝組みなのだ。 
      

▲龍門瀑に逆らって飛翔する鯉魚

▲雪降る龍門瀑

▲金閣寺と芦原島  金閣からみると島の後ろ側が見える

▲芦原島 には三尊石が三つある。入口側の松の左右と金閣側

▲上記写真の右側三尊石の拡大

葦原島の左側にも巨大な三尊石がある

▲芦原島を東側から望む

▲葦原島(日本)を管領の細川氏が舵を取っている(金閣側からの景)

▲細川石と三尊石組
(この石組みは西芳寺の形を受けていると言われている)

▲三尊石

▲細川石 細川石は2mあるがその手前の横石も見事

▲金閣寺における岩組みで最も剛健な部分

▲神仙蓬莱の世界

▲金閣側の岸からの景(鶴島、亀島、畠山石)
  舟でこの島の向こう側から金閣を見ると、左側に亀島、右側に鶴島があり、その奥には金色に輝く水面の上に、鳳凰が飛翔しているように見える。将に蓬莱山の姿だ。

▲上記写真の拡大

▲九山八海石の拡大(はるばる中国から運ばれた太湖石・高さ144cm・水面上は54cm)

▲左より葦原島の灯篭、九山八海(ゴツゴツした奇岩)、鶴島、亀島、畠山石(富士山形)

▲舟屋と出亀島

▲入亀島
  島中央の護岸は三尊式

▲左側の出島右にある富士山形の石が畠山石、その右側の直立した石が赤松石

▲鏡湖池の南西部  大和絵風が残っている

▲龍門瀑  観音石(左の白い石)と猿石(皺の多い石)がよく見えない。
 ここがこの庭園の最も重要な場面である。禅の物語が全てが含まれている部分だ。

  初めにも記したが、金閣はもともと池の中央にあり、龍門瀑付近の天鏡閣へは金閣から拱北廊と言われる空中廊を渡って行ったそうである。つまり、今の龍門爆は池から離れたところにあるような感じを受けるが、本来は滝の周りは池であったと思われるが、度重なる洪水で池が埋まってしまったのである。なお銀閣寺にも龍背橋という反橋があった。

▲一般的には注目されていないが、ここにも碧巌録の世界が展開されておる。白衣観音石と猿石

猿石

「五灯会元 夾山」より

 猿抱子帰青嶂後 鳥啣花落碧巌前
  猿は子を抱いて青嶂(せいしょう)後(しりえ)に帰り、鳥は花を(ふく)んで碧巌(の前に(お)


▲坐禅石をやや俯瞰して撮影

▲坐禅石と銀河泉  坐禅石は永保寺、西芳寺のそれにそっくり
坐禅石の系譜  龍渕水の系譜
坐禅石と銀河泉、嚴下水について
  金閣寺のモデルは西芳寺の坐禅石と龍渕水にある。坐禅石の横にあるのは龍渕水のみである。龍渕水は坐禅するために身を清めるためにあるのだ。では、ここでは何故お茶のための水を汲むところと、手を洗うためとになったのであろうか。また何より解せないのが坐禅石の場所である。この坐禅石(何処にもそのような説明はないが、形や場所からして坐禅石に違いないと思われる)は永保持、西芳寺の形そっくりである。坐禅石があってそこに泉があるのだ。ところが、ここでは山裾から離れたところにポツンとあるではないか。何か不自然である。
  私の推測であるが、お茶が盛んになったある時期(江戸)に泉を二つにしてしまった。そして肝心の坐禅石についての本来の伝承が失われてしまったため、山の中腹にあった石が現在の位置に移されてしまったのではないだろうか。足利義満の時代に作られたものではない、と思われる理由は次のようになる。@夢想国師が西芳寺を修行の場として作ってから約40年しか経っていない。A義満は西芳寺の庭を再現しようとしていた。B義満はお茶には凝っていなかった(義政は凝っていたが)。C細かな石がゴチャゴチャしていて金閣寺にしては迫力がない。Dこの辺りは大分改造されている。龍門瀑付近の天鏡閣へは金閣から拱北廊と言われる空中廊を渡って行ったそうで、池などがあった。

▲銀河泉 義満公お茶の水と書かれている。  西芳寺の龍渕水を倣った。
今は水が湧き出てこないのは裏山の住宅開発のため

嚴下水  義満公お手洗いの水と書かれている。

夕佳亭                            ▲夕佳亭前にある富士山と雲海

▲庭内の清掃

▲参堂の秋

▲雪の金閣

▲第一層の法水院は寝殿造り(第二層の潮音堂は武家作り、第三層の究竟頂は禅宗造り)

▲葦原島の三尊石組み

▲亀島(右)と鶴島

▲入亀島(左)と出亀島

▲入亀島
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左側:猿石
更に左側:観音石