村上家の庭園 重森三玲が工夫を重ねた創作庭園(曲泉山荘) 昭和24年53歳 |
兵庫県西脇市野中町 個人庭園なので拝観時は先方の都合を伺うこと |
庭園は複雑に入り組んだ枯山水の泉が流れている。その間に蓬莱連山が幾重にも重なり、幻想的である。創建当初は背後の神体山との間に遮る建物がなく頗るロマンティックな雰囲気である。重森は昭和24年にこの庭を作っているが、戦後初めてに近い作品ではなかろうか。そのためか、特別の巨石、奇石、名石が比較的少ない。おもうに、庭とは高価な青石や馬鹿でかい巨石、奇妙な形をした奇石によるものではなく、各々の石が相互に組み合わさって全体の造形がなされるべきであることを語っている。施主と重森がどのような出会いがあったのかは、定かではないが、施主の一途な気持ちを重森が真剣に受け止めた結果がこのような純粋な庭ができたのではなかろうか。いわば二人三脚によってできたのであろう。「鄙には稀な」という言葉があるが、将に鄙だからこそ生まれた純潔の庭である。 総論 当庭は三神仙島と苔地の州浜のある枯山水である。東福寺の方丈と光明院の両要素を含んである。重森の戦後初の仕事だ。多くのアイディアが詰まっている。上記のような基本構造は以後の個人所有の枯山水庭園を決定づけている。 また、軒下には鞍馬石の延段があるが、まだ直線状態だ。そのため、書院前の枯山水の池には州浜がある。しかしこのあとの作品になると、延段自体が洲浜型になり、軒下に海岸風景が出現する。つまり奥行きのない市街地であっても奥行きの感じる庭園になる。 さらにまた、この庭には平面型の龍門瀑が組まれている。龍門瀑といっても、水落石のない三尊様式の滝である。主尊は2石を合わせて作られから滝が轟音を立てながら流れている様を示している。山口県の普門寺の滝のようだ。 当庭園のオリジナリティー @龍門瀑 当庭のテーマは龍門瀑である。古典庭園では天龍寺、西芳寺、金閣寺など格式のある庭に採用されたテーマである。重森は終生このテーマの挑戦し十二庭作った。しかし、当庭のように平面に作った例は他に無い。一般的には山畔に作り立体造形をを得るのである。当庭では困難な立地条件であるが見事に成功している。 それは、小さいが鋭い稜角線の石と、見事な三尊石に負うところが大きいのではなかろうか。 この庭を西脇市ならではに関連付けているのは龍門瀑である(龍門瀑の系譜参照)。 龍門瀑とは 天龍寺や金閣寺などにある。ともに中国の故事にある「登龍門」の由来である鯉が、三段の滝を登って将に龍に化す様を現している。中国南宋よりの帰化僧の蘭渓道隆禅師が中国の故事にある登竜門(鯉が死を賭してまで竜になるべく努力するさま)にならって、修行僧が観音の知恵を得る(悟る)まで、努力をしなければならないことを日本庭園の形で教えている。このテーマを夢窓国師が引き継いで新しい庭園のスタイルを確立した。このようなわけで鎌倉、室町時代は庭園のメインテーマは滝だ。 A軒内の敷石 軒内の敷石を始めて採用した。後世の洲浜模様、雲紋模様の原点である。影響は非常に大きいので末尾に特筆した。 B初めての多島式庭園 重森は初めから枯山水庭園を作った。古典庭園のような池庭では無い。池庭であれば鶴島、亀島を作ったりして、立体造形が無理なく作ることが出来る。しかし、平地に作る枯山水の立体造形を得るのにはどのようにしたらよいか。重森は伝説の島である四神仙島(蓬莱、方丈、瀛州、壺梁)を作り、そこに石を立てた。平面に無理なく、意味のある立体造形を作ることが可能になったのである。戦後初めての庭であるが、戦時中に温めていたであろう、アイディアをここて実現した。この手法は、重森の後世の庭で相当多く採用されている。 C曲泉山荘の洲浜模様 当庭には海洋を表す白砂の中に神仙島があるが、海洋の洲浜模様も初期のものである。最も初期の作品は東福寺・光明院であろうが、個人庭園では初めての試みである。 そのほかに蹲、茶室、七五三の岩組みもあり大変貴重である。 |
▲青石による簡素な敷石 |
▲曲泉山荘の扁額の掛かった門(大変珍しく、貴重) |
亀島は蓬莱山を背負っている |
鶴島 |
龍門瀑 蛾々たる滝に飛翔せんとする鯉魚 |
▲轟く龍門瀑 三尊岩組みは絶品。周囲の岩組みと調和して神仙蓬莱山を髣髴とさせる。 主石は陰石にして陽石であるが少しも淫乱さを感じさせなく、むしろ清清しい気持ちにさせる。 |
▲鯉魚石拡大 |
▲鋭い形の鯉魚 石重森の原点である豪渓を思わせる枯龍門瀑(中央石には轟音を轟かせて龍門瀑が落ちる) |
▲龍門瀑を横から眺める |
▲蓬莱連山 |
▲仙人が住むという神仙島を連想させる |
▲出舟 |
▲入舟石 |
▲重森が昭和23年3月にに書いた設計図 明瞭な神仙島は二島で一島はモクセイ刈込み築山である。 重森の後の庭園は四島になる。 軒下の敷石はまだ直線であり、洲浜型をしていない。一方、枯池の周りには苔地の州浜がある。 しかし、この後の庭園になると(現存庭園では前垣家)敷石が州浜になる。このことは大変重要である、 即ち苔地の州浜が不要になることは、海岸線が軒下にあることで、 奥行きの少ない市街地での造形が大変作り易くなることである。 |
▲玄関へのアプローチ。粉河寺(和歌山県)の敷石意匠に似ている |
▲軒内には重森が創作した丹波石による敷石が初めて敷かれた。敷石は直線状で、まだ雲紋形ではない |
▲「曲泉山荘」の庭とは建物の反対側にある七五三の庭 |
▲躙り口(左側) |
▲蹲 |
▲西脇市の下流にある闘龍灘は将に龍門瀑といえる。 |
▲将に龍門瀑だ |
軒内の敷石デザインの変遷 軒下の敷石は昭和24年に村上家(西脇市)出始めて出現した。村上家は戦後初めての庭園のため重森は新しい試みをしている。重森は戦中、戦後の混乱期は庭を作る作ることができなかったが、当家の庭を契機として一気に新しい企画を形にする。その代表的なのが軒下の敷石のデザインである。古典の庭においては類似の意匠を見ることができないが、敢て類似しているといえば寺院の軒下の方形瓦による敷石の意匠であろうか。 さて、重森が始めて軒下に意匠したのは西脇市の村上家であるが庭園に面した書院軒下に丹波石を敷き詰めた敷石を作った。丹波石は鉄分を含んでいるため落ち着いた雰囲気かかもし出される。 この意匠は次第に石の間隔が大きくなり、溝が深くなり、目地に彩色するようになった。その変化の最も大きなのは洲浜形意匠の発見である。というのは重森の枯山水は島がありその周りを白砂を敷き大海を表した。そのため軒下には洲浜模様が最も庭園構成上適合する。この意匠の発見により庭園は立石、白砂、苔の三要素から脱却し複雑な構成が可能になった。このデザインは意匠上(視覚上)の効果のみならず軒下を移動する自由を与えるため、鑑賞者が座敷から固定的に見るのではなく軒下を移動しながら鑑賞できる効果も発揮した。 丹波石による洲浜・雲紋意匠の変遷 丹波石を軒下の敷石としたのは昭和24年の村上家である。一方洲浜の曲線意匠は色セメントにより昭和30年に東家(高梁市)に見られる。この作品の直後に前垣家(東広島市西条)ではじめて丹波石による洲浜模様の意匠が完成した。雲紋は昭和31年に瑞応院で見られるが阿弥陀如来を囲んだ二十五菩薩が雲の間から来迎する姿である。臼杵家にいたっては廊下の垂直面までこの意匠が採用されている。この意匠の例は数多くあり、重森の代表的な衣装となった。 ▲村上家:昭和24年 ▲東家:昭和30年 ▲前垣家:昭和30年 ▲瑞応院:昭和31年 ▲増井家:昭和31年 ▲臼杵家:昭和35年 |
青石による軒の内意匠の変遷 青石による軒下の敷石意匠は上記丹波石の意匠の変形であるが、以下にその変遷を記す。青石の敷石は高野山の西禅院で昭和26年に現れ、その変形が西禅院の茶庭に昭和28年に用いられた。曲線の意匠が始めて用いられたのは昭和32年の愛媛県西条市の岡本家である。この意匠はその後しばらく採用されなかったが昭和46年小林家(堺市)、昭和49年福智院(高野山)、昭和50年最後の作品となった松尾大社で華やかな衣装として現れた。 ▲西禅院@:昭和26年 ▲西禅院A:昭和28年 ▲岡本家:昭和32年 ▲小林家:昭和46年 ▲福智院:昭和49年 ▲松尾大社:昭和50年 |
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