「中田家住宅」ギャラリー |
「中田家住宅」は松本市の重要文化財であるが、この度その一部がギャラリーに改装されました。 現在は日本庭園の写真展、山岳写真展を行っております。 ・日本庭園の写真展は長野県内外の古典庭園や重森三玲を中心とした近代庭園を展示しています。 ・山岳写真展は信州のアルプスを展示しています。 両展示内容は随時変更の予定です。 上記ギャラリーの他に以下の3点の史料があります。 @元禄時代の庭園があり「中田氏の庭園」として長野県の名勝に指定されています。 A元禄時代の古書院と約120年前に建てられた本棟造りの母屋があり「中田家住宅」として松本市の重 要文化財に指定されています。 B古文書は慶安と明暦の検地帳や天正時代の知行書などもあり、コピーを展示の予定です。 古書は『源氏物語湖月抄』・『甲陽軍鑑』・『信長記』などがあります。 小説や狂歌に掲載されている「中田家」について ・郷土の自由民権家である木下尚江の小説『懺悔』第四章に「御巡幸」に中田家が書かれている。 ・有名な江戸の狂歌師鹿都部真顔が松本を訪問した際に中田家で厚遇されたことが記されている。 鹿都部真顔の有名な一歌は 「立まわす高嶺は雪の銀屏風中にすみ画の松もとの里」 詳しくは最下段に掲載。 |
「中田家住宅」ギャラリー 全景:写真サイズは幅は172cm、高さは上段写真が230cm、下段は90cm |
西壁:重森三玲コーナー:上段左より東福寺、松尾大社、北野美術館、興禅寺など 下段左より織田家、中田家、瑞応院、興禅寺 北壁面:長野県内の庭 左より山口家、竹村家、百瀬家、百瀬家 |
南壁:左より東院・ 常栄寺(龍門瀑・枯山水部)、徳島城(表御殿)、光前寺、遠照寺 |
左側の上段、下段の順に永保寺(多治見)・瑞泉寺(鎌倉市)・常栄寺(上下段・雪舟寺)・徳島城 |
東壁:左側奥は山岳写真室、庭園写真は左上段より東院、永保寺、瑞泉寺、、本法寺、玉泉寺 |
日本庭園写真の展示場の奥には市川董一郎の山岳写真が展示してある(長押上部は東院庭園) |
正面 左から中央アルプス、南アルプス |
左から中央アルプス、南アルプス 右端は南アルプスの間ノ岳 |
左から北アルプスの剣岳、後立山連峰、穂高岳連峰、中央アルプス 木曽駒ヶ岳 |
「中田氏の庭園」(長野県の名勝指定) 母屋から見た庭園 池中に鶴島と亀島の一対が揃っている民家としては珍しい庭。背後には三つの築山があり、庭園に立体性を持たせている。中央の築山には蓬莱山、枯滝、三尊石がある。 なお、右側の鶴島は重森三玲によって修復された(島中央の竪石は従来横になっていたが、重森は羽石と解釈して現状の様に立てた)。 |
古書院より眺めた庭園 |
母屋から見た古書院 |
「中田家住宅」(松本市重要文化財) 「中田家住宅」の正面 1890年(明治23年)に造られた本棟造り |
三重に組まれた梁構造 |
古書院:江戸初期 |
古文書:約400年まえの検地帳などの古文書や大庄屋時代の古文書など
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明暦弐年(1656年)の検地帳 |
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庭は古書院が作られた元禄の頃に作られたと思われ、藩主の来遊も多かったが、文化2年(1805年)に は戸田藩の藩儒者木沢天童が中田家の庭園について『鶴亀石記』を記している。 鶴亀石記 前に万畳の山有り、雪を千秋に望む、その景高くして仰ぐべきなり、後ろに一條の渓あり、清を朝夕に汲む、その流れ長くして鑑る可きなり、………。 文化二年冬十一月 |
古書関係 |
源氏物語湖月抄(全61冊) 延宝元年(1673年)の最古の版 |
61冊目の表紙・2冊目始め・61冊目の最後。 |
甲陽軍鑑の各冊表紙と20冊目の終わり 元和7年(1621年)の最古写本を、万冶2年(1659年)に発刊された。 |
信長記(全15巻) 『信長公記』が有名であるが、『信長記』は江戸初期の仮名草子。小瀬甫庵(おぜほあん)作。1622年(元和8)刊。15巻。太田牛一(ぎゅういち)作の実録『信長公記(しんちょうこうき)』を、甫庵が物語風に潤色したのが本書。信長公記』は記録性を重んじ、信長の若年の奇行やその後の専制君主ぶりをありのままに描くが、『信長記』は、信長を媒材として儒学の理念を宣揚すべく暴君色をやや薄めている。 |
木下尚江『懺悔』に書かれた中田家 詳しくはここをクリック 木下尚江の『懺悔』第四章の御巡幸の抜粋は以下のようになる。 如何してあんなに御通行の時が後れたのかと後で聞いてみたが、それは出川駅の御小休みで案外お手間が取れたのだと云ふ事であった。出川駅で供した御慰みの計画は其の頃非常な評判であった。御小休所の庭上なる池から鯉を釣って天覧に供えたとのことであったが、竿さえ投げれば直ぐに大きな魚が引っ掛って来るので、龍顔誠に麗しく見受け奉ったとのことである。如何して其のように能く釣れたものかと不審であったが、其れは十日も前から餌を与えずに、充分腹を減らして置いたのだと云ふことであった。聴くもの皆な手をうってその妙案を褒めちぎった。余は只だ奇體なことをするものだと黙って聴いていた。…………。 |
鹿都部真顔に書かれた中田家 詳しくはここをクリック 中田家の翁は自分とおなじ年齢と聞いていたが、仏道への信仰が深く、もう世をしりぞき、その長男が今の当主となっている。娘も出てきて、何くれとなく世話をやいてくれ、こんな私まで客あつかいしてもてなしてくれる。三男は、まだ幼いが、とても美しく育っていて、酌をしてくれたり、肴を持ってきてくれたりするが、そのようすや物腰には品格がある。 出典 原文:真顔狂歌稿 訳文:鈴木俊幸著『一九が町にやってきた』 高美書店(2001年1月刊) |
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