松尾大社の上古の庭・曲水の庭(重森三玲
        蓬莱の庭(重森三玲・完途・千靑氏三代の庭)
京都市西京区嵐山宮町3  電話:075-871-5016
磐座、磐境の庭の石組み  社会思想社刊、日本庭園史大系月報 昭和49、12より
  この庭については凡人の私にはコメントが出来ない。重森先生の神との交信(最後となってしまう)を記載させていただくより方法がない。

 「磐座(いわくら)や磐境(いわさか)はもとより庭園ではないから、この石組みは全く庭園的な石組みではない。特に磐座は石そのものが神格化されたものであって、それだけに、この石を組むことは容易な術ではない。
  石そのものを神として組むことであるから、神を作る作者は、同時に神の立場に立って組まぬ限り磐座とはならないが、それかといってそれは不可能なことである。したがってそれはむしろ、どのようにしたら多少でも神に近づくことが出来るか、の問題である。ただそれには、少しでも自らが純粋になり切ることよりほかはない。しかしそれとて、言易くて容易なことではない。…………今度の磐座や磐境を作ったときほど疲れを覚えたことはなかった。………
  筆者はこの石組みをするにあたって、前述のように、最高度のものを作りたいという念願から、ともかく一生懸命になりきることが出来た。自ら純粋性を得るためには、全て奉仕的な対場を取ることが唯一の良法であるから、金銭的な面には一切絶縁できるように、神社側に依頼したことは良かった。
  この石組みをするにあたって、最初から容易でないことは解りきっていた。。一切の技巧的なものは出すことを許さない。石を組む上で技巧と言うものがあるとすれば、この場合は全く無技巧の技巧ということだけである。神の存在に接近することを念願しつつ、神としての感覚のひらめきのみが必要である。石が立つまま、傾斜するまま、そこに極度に細密な神経をつかいながらも、神としての石の命令を受けて、石の「そのまま」とか、「もうよい」とか、「このように起こせ」とか、「ここまで深く入れよ」といった、言葉にならぬささやきに神経を尖らせているのである。それは、単に松尾大社の猛霊の意のままに、石を扱ったのであった。」

  この文章ほど神の庭を作るに当たっての、心構えを伝えるものはないと思う。文中のように作庭中に非常に疲れたと書いておられるが、鎌倉風の庭を作る前に亡くなられてしまった。将に命と引き換えにこの上古の庭を作られたのだと、思う。…………
思い出
  この庭は重森三玲先生の絶作になってしまったが、お体の具合が悪いとは知らずに、田舎から上京した父と先生のお宅をお尋ねした。奥様が松尾大社で作庭中とのことでしたので、早速石を立てられている先生をお尋ねした。話が上古の庭になったとき、山中には二柱の磐座が鎮座されている、とのお話があった。そのとき以来ずっと気になっていたが登拝することが出来なかった。ところが平成16年から登拝道の整備がなされ、現物の磐座を参拝することが可能になった。但し2人以上で。
大山咋神は松尾大社と日吉大社に鎮座する
  古事記に「大山咋神またの名は山末之大主神、此神は近い淡海国の日枝山に座し、また葛野松尾に座す鳴鏑を用ふる神なり」とあり、山上に鎮座し、近江の国の日吉大社と当地の松尾大社の神である、となっている。両社とも山上に磐座があることから(日吉大社は八王子山)偶然に共通の神名であるのだろうか。私の推測では当松尾大社から見ると比叡山はほぼ23.5°の位置にあることから、冬至には日の出が比叡山から上るために両社の神名が同じなのである、と思う。同様に夏至の日の出の方向であるマイナス23.5°で線を引くとなんと稲荷神社になるではないか。古代においては、冬至がはいよいよ春が訪れる希望の日である。それゆえに両社は不即不離の関係であったのだ。また当社と稲荷神社との関係も何かあるのではと推測する。
庭園
①上古の庭
 重森が生涯で作った庭は約200庭あるが、この庭はその最後の作品になった。重森の庭は殆ど違ったデザインの庭であり、どれも傑作であるが、人生の総決算の仕事に相応しく当上古の庭が最高傑作といえまいか。晩年の作品はデザイン化の傾向にあったが、この庭は原点に返った古典的な庭ともいえる。しかし 金閣寺や苔寺の庭になったという意味ではなく、石の組み合わせのみによる空間造形に戻ったという意味である。石の組み合わせのみの造形で緊張がみなぎった高密度の大空間にしている。もはや重森特有の洲浜、白砂、苔、築山、竹垣など一切不要である。石そのものの生命が主張しているのみである。このような気迫のこもった庭が完成出来たのは、重森の松尾の神に対する畏敬の念による設計思想からではなかろうか、もはや何の技法も必要ないのである。次に雛壇状の立地条件にあるのではなかろうか。もしこの庭が平地にあったなら、怒涛のように押し寄せてくる迫力があるであろうか。もし立石の周りに苔を植えたて白砂を敷いたならば、このような純粋な迫力は生まれないであろう。

▲霊亀の滝を望む

▲雪の上古の庭(2/9)

▲神の住まう庭に清浄なる雪が

▲霊亀の滝の水は「曲水の庭」を通り「蓬莱の庭」に流れる

▲松尾大社拝殿背後の松尾山には巨大な磐座がある。
 大山咋神(おおやまぐいのかみ)を左から望む(部分) 古代人ならずともこの迫力には圧倒される

 備考)当神社山内での撮影は禁止されているが、上記写真は特別に許可され撮影した。

▲「上古の庭」には当社のご祭神である大山咋神、中津島神を象徴した巨石二本が立つ

▲「上古の庭」  ミヤコザサを植え直した
松尾大社背後の山には磐座があり、祭神は大山咋神、中津島神であることから「神々の庭」と言える

▲雨にぬれは青石は重厚な輝きを放つ

▲神々の遊び

▲横から神々

▲危うい石柱群が緊張を生む

▲抹茶を飲みながら「上古の庭」「曲水の庭」が鑑賞できる贅沢な部屋

▲神殿の背後から湧水する霊泉と神亀の滝が重森に曲水庭園を作らせた

▲「曲水の庭」を作庭中の重森先生

▲現代の曲水の宴

 関連庭園として平城京三条二坊宮跡城南宮がある

▲デフォルメされた自然の造形

▲鎌倉時代の精神を現代の感覚で  どこの角度からも見ごたえがある
  この庭は重森家三代の熱意によりできたもの。設計は三玲氏、実際に作られたのは重森完途氏、瑞翔殿横にはお孫さんの千靑氏が作られた庭がある。

▲龍門瀑  現代の登竜門であるが雄大な構成

▲ダイヤのように煌きながら舞っている


▲巨大な鯉魚石。常栄寺(雪舟寺)の鯉魚石を思わせる。白砂が敷かれた島は作庭記の「白州なるべし」を思わせる

▲重森千青氏の作品  瑞翔殿の庭 三代の庭にふさわしく三段の構成になっていて千靑氏が父である完途氏、祖父である三玲氏を超えるべく奮闘してる姿とも解釈できる。
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