生家の庭 重森の処女作(大正13年・25歳)
岡山県上房郡吉備中央町賀陽
庭園
  作品は荒削りながら迫力に満ちた枯山水庭園で、彼が自宅の茶室前に作ったもの。将来の質実剛健な雰囲気が感じられる.。
 青年の重森が処女作を作ったのは自宅である。ここに枯山水式の庭を作った。終生で約200庭を作ったが、よほどの理由(施主が既存の池泉様式の庭の存続を望んだ)が無い限り枯山水様式の庭を作り続けた。なぜ枯山水に拘ったのかを知るのは、この庭からだけでは回答が得れないであろうが、じっくり観察したい。
 生家はやや小高くなった場所にあるため、ポンプを利用しない限り池泉式庭園は無理である。その為か築山の上に岩を三段組みその上に大徳寺(大仙院)風に端正な姿の二石を直立させている。
 重森は地形的な不利を克服する形で、実際の川を流す代わりに白砂による抽象的な川を流した(現在は枯葉の下にある)。その姿は松下電工汐留ミュージアム発行の「重森三玲の庭=地上の小宇宙」展 79頁に鮮やかに示されている。デフォルメされた大河がとうとうと流れている。雄大に流れている姿はまことに美しい。
 また重森の作品を理解するうえでは、近くにある 
●重森の原点 豪渓  
●重森の原点 楯築神社
 参考になると思われる。

余談
  この庭へは重森三玲記念館の辻田館長にご案内いただいた。館長は鋸、鉈、鎌、ほうき、フォーク状の農具などを持参した完全装備である。先ずは伸び放題の竹の伐採から始まり、藪の手入れ、落ち葉の清掃などを手際よく処理していただいた。青木氏と私は少しお手伝いしただけで、もっぱら撮影に専念した。お蔭様できれいに片付いた庭の撮影が出来た。この後、先生のお墓をご案内いただき墓前に近頃の様子をご報告した。

大改修
2010年の5月には旧来の竹藪などを一掃して、本来の生家の庭が蘇った。
もとは蔵や書院、茶室があったのだから、やや物足りなさを感じざるを得ないが、時代の流れでやむを得ないところである。

重森の処女作について田村剛氏の評価を掲載する。
田村剛氏の雑誌『庭園』1925年6月号の6・7頁(7巻)から引用した。

枯山水と重森氏の處女作

                           田 村 剛

 (1
 枯山水が我が造庭意匠上に及ぼした影響のいかに大きいかは、殆ど想像の外である。枯山水は何人の創意であるかは知らぬが、恐らくは相阿弥の大仙院は最も古いものゝ一つであって、彼を以てわが枯山水の鼻祖だというも大過はないであらう。爾来枯山水を築く者続出して、今日と雖も尚庭師は、水なき位置に築山を設けるに当たっては、この手法を常套とするほどである。桃山江戸時代に於て盛んに枯山水の築造せられたのはいふまでもない。ここに挿入した写真は、予が過般鳥取市内の舊家で撮ったもので、江戸時代の茶庭であるが、枯井戸を水源とする枯滝であって、範とするに足る石組みの味ふべき技術を示している。蓋し佳作の一つたるを失わないものである。然しながらこの枯山水の意匠たるや、いかにも平凡であって、少しも新味を有しない。この點は本庭園のみならず江戸時代庭園に共通する短所ともいへるかも知れない。

 2
 こゝに紹介せんとする重森三玲氏の枯山水を一見して貰いたい(口絵)。まずその意匠の大仙院より多くの暗示をうけてゐるのに気付くであらう。植込を背山とする石組によりて瀧を象りそれを水源として流れを導いて来て石橋を架け石船を浮べてゐる。これは大仙院そのまゝである。然しながら、には少しも因襲がなく、捉われがない。スラ々といかにも揚々とした意匠たるに於て、全く独創的ものと言ってもよろしいほどのものがある。流れの浅くゆるく廣く、恰も大河を想わせるやうな點などは、いかにも京都の渓谷風景ではなくて中国花崗岩地方の大川の秀麗なる風趣を描き出している。
 庭は右手に茶室を有し、飛石の始まるところに、六畳二間が庭に面してゐる。写真は右の六畳からとったものだといふ話である。従って流れの末は座敷のの下へ流れ去ることになってゐる。図で見るように、飛石は流れを一度横断して、中央の踏分けに達し、こゝで二手に分れて、一つは右奥に消え、他は左方庭門より去るのである。水邊の捨石もさることながら、特に瀧付近の立石は古法によって最も厳粛なものとなっている。

   (3)
讀者はこの庭の作者と、庭師の名を知りたいに相違ない。まず庭は岡山縣上房郡吉川村といふ、僻遠の地にあって、最近出来したものである。この庭の意匠はこの庭の所有者である重森氏自身である。重森氏は庭に就いては全然素人であった。兩三度予と談じたことはあったが庭を造ったのはこれが始めである。その動機は拙書によりて大仙院庭園の非凡なるを知り、京都遊覧のに大仙院以下の名園を訪れ、大いに相阿弥の妙技に感動してこれよりヒントを得て、自邸に自ら意匠することとなったのださうである。さて庭師は如何。この地方には庭師は皆無である。そこで地割より石組に至る迄、悉く重森氏が現場で土方人夫を督して、なさしめたといふ話である。さればこの庭は全然素人の作庭で、併もその女作なのである。
  但し重森氏は日本しく、殊に絵畫史にに生花に通じられた新しい藝術家である。 予は重森氏の作を見るに及んで、造園のことは冷やかな理屈でもなく、又無暗な練習でもなく、眞に芸術の殿堂に精進して、美の本體を確実に?むことだということを深く考えさせられた。に重森氏の處女作に對して満腹の敬意を表すると共に、わが造庭の技術に關はる人士の發奮を希ひつゝ擱筆する次第である。

備考
当原稿は雑誌『庭園』1925年6月号の6・7頁(7巻)から引用した。また文章は作者の意図を尊重することや時代背景に鑑み旧字体にした。原稿では縦書きであるがここでは横書きとした。

参考
(ここに)・暢々(のびのび) (たるき)・(かねて)・(サイ・みぎり)・(が)・しく(くわしく)・(ひそか)・(カク・おく)



三尊枯滝@

大仙院の不動石と観音石を思わせる石組みであるが。石の間は微妙な間隙があり、石の質感とともに鑑賞ポイントである。

滔々と流れる大河を小船が遡る(本来は白川砂とすべきところであるが、最終不可能のため代用品)

上記舟石

▲正面からの石組み

▲橋の架かり具合を示すために、やや左寄りから撮影した

▲右寄りからの撮影

▲舟石(入舟)本来の位置から移動され竹やぶの中にある

▲舟石(出舟)

重森が若き日に国指定文化財の指定に奔走した八幡神社の社頭にある重森の石組

中国の風景とも云える豪渓の指定のも奔走した
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日本庭園協会理事

林 学 博 士