1、なぜ日本庭園か
@日本文化の分かりづらさ   
西欧人と日本人の発想の違い
  西欧人は絶対神の教育を受けているので絶対基準から発想する。先ずあるべき姿を正確に描く。次にその姿を実現するために具体的な手段を考え、プロセスを決め実行する。
  一方日本人は物事を相対的に考える。そのために、あるものは一応受け入れ、その中でバランスをとる。そのため日本の文化は各時代の思想が混合している。それゆえ各時代の作品を解釈するためには、ベースになる思想をはっきりさせておく必要がある。
  もし外国人が日本に来て日本らしいところに案内してくれ、と請われたら大半の人は奈良、京都に行くのではないだろうか。しかしそこに行って何を見て、なんと説明しようとするだろうか。何年に、誰が建てたとか、何メートルの大きさだとかは説明する。しかしそれがどうした、それでは小学生の説明だ。西欧人はそのものが発生する根拠から説明を受けなければ納得しないのではないか。もちろんこの文章は西欧人に説明するためのものではなく、もっと日本を知ろうとして書き出したものである。

日本庭園の核になる思想の分離
(詳しくは2、時代による庭園様式参照)
日本庭園の定義を「石の空間処理」と解釈するならば、概ね次のようになる。
a、信仰の対象としての巨石配置を庭園の源流として考える(縄文・弥生・古墳時代)
  古くは縄文時代から始まり弥生時代、古墳時代における巨石、巨木信仰。神社の起源の大半はこれに相当する。古墳時代になると巨石の移動などを行うようになってからは、磐座、磐境を作るようになった、と考える。

b、神仙蓬莱思想は不老不死の願望を満たす(飛鳥・奈良時代)
  飛鳥時代になると中国、韓国から神仙蓬莱思想が伝えられた。この思想は不老不死への願望を満たしてくれそうなので、秦の始皇帝から始まり、漢の武帝など古代中国の権力者がこの思想に熱狂した。日本でもこの思想はすぐに蔓延し、「島大臣」と言われた蘇我入鹿も池を作り、その中に蓬莱山島を作って不老長寿の儀式を行った。更に天武天皇、持統天皇にも引き継がれ飛鳥地方に不思議なモニュメントが生まれた。
  この思想は人間の根源的願望を叶えてくれそうなので、今日まで影響を与えている。いわば日本人のDNAに組み込まれた風俗になっている。

c、極楽浄土思想は末法への怯えから(平安時代)
  仏教は欽明天皇時代の552年に正式に日本に伝えられ、物部氏の奉ずる古い土着信仰を駆逐していた。飛鳥時代からは官営の大寺院を建設し律令国家の建設をした。しかしこの思想は直ちに庭園には反映しなかった。平安時代の末期になると律令時代のほころびが覆うべくもなく明らかになり、天変地異があったりで、世の中が不安の時代になってきた。そこで予てより噂のあった「末法の時代」の到来ではないか、との不安が拡大し、定着した。極楽に往生するためには面倒なプロセスが必要である。しかし権力者は考えた。この世に極楽を再現してしまえば簡単に極楽浄土に行ける、と。そこで平等院に始まる極楽作りが始まった。

d、禅思想が日本庭園の精神性を高めた(鎌倉時代)
  古代仏教の矛盾を打破すべく法然、親鸞などが新しく大衆のための仏教を打ちたてようとしていた。栄西は従来の天台宗に飽き足らず1168年、1187年と二度にわたり入宋し臨済禅を収め帰朝した。道元は建仁時の栄西に学んだ後、1223年念願の入宋を果たし、如浄より法を受け1227年帰朝した。日本における禅宗が勃興した。
  一方中国においては宋は元に犯され、南宋が細々存続していた。中国から蘭渓道隆が来朝し禅宗が隆盛した。蘭渓道隆こそ禅庭園を始めた人物で、その後龍門瀑が庭園のメインテーマになる。更にその後、夢想国師が自然の中での悟りの場として日本庭園を位置づけした。以上の経過で日本庭園は悟りの手段として作られるに及んで、単なる鑑賞物から精神性を備えた庭になった。

e、枯山水庭園は寸土に世界を観る(室町時代)
  従来の庭園は広大な敷地を必要とした。枯山水の庭園は禅寺の一隅でもつることが出来、比較的狭い庭が誕生する。狭い土地とはいえ、そこには宇宙とみなされた世界がある。

f、安土桃山時代は実力の世界(戦国時代)
  この時代は混沌としていて頼れるのは己の実力のみ。この時代は従来の様式は踏んで入るが形式的である。庭園に組まれる岩は大きくなり、質実剛健、自由奔放、豪快無比。石の組み合わせの妙を楽しみだしたのではないだろうか。

g、太平の時代(江戸時代)
  江戸時代になると当初は桃山時代の気風が残っていたが、時代が下リ「大名庭園」の時代になると。総じて大きくなリ、過去の様式の寄せ集めになり、オリジナリティーが少なくなったのではなかろうか。


h、世界言語として世界に日本を発信する(現代)
  日本庭園は各時代の伝統を受け継ぎながら、「石という永遠の素材を使い大自然を抽出する」という知的な芸術活動の所産だ。人間はいかに機械化されようとも自然の一部であるから、大自然からは離れて生きることが出来ない。自然と共に生きるから安らぎを得ることが出来る。近代芸術は試行錯誤中であるが、日本庭園は世界言語としてこれからも発展するであろう。欧米にも自然を対象とした庭園があるが、歴史を感じるのには日本庭園が面白いのではないか。

鑑賞の対象としての庭園
  日本の伝統文化といえば、侘び、寂びという。しかし具体的には分かりにくい。では茶道、華道、香道ならどうであろうか。具体的になったが伝統的な師匠につき、家元に上納しつつ免状をいただく制度だ。手間隙をかけた割には、全体が見渡せなくなる傾向がある。では仏像鑑賞はどうかとなるが、これには私は躊躇するところがある。第一信仰の対象であって、笑顔がいいとか、目つきが温和だとか、腰のひねりがいいとか評論する対象ではない、と思う。ギリシャやローマの像ではないのだ。
  そこで日本庭園が登場する。その特徴は
 ・もともと鑑賞の対象である
 ・時代ごとの特徴があって、その時代を理解するのに役立つ
 ・自然を対象としているため、鑑賞していると心が和む
 ・大勢の人が簡単にアクセスできる
A日本の巨石遺跡と石庭めぐりは日本人探しの旅
 世界には有名な巨石遺跡が多くある。たとえば、イギリスのソールスベリー付近にはストーンサークル、フランスのカルナック遺跡にはストーンテーブルなど、イベリア人が5000年以上前から不思議なモニュメントを作っている。我が日本にもやや小ぶりではあるが、秋田の大湯や小樽郊外の忍路にはストーンサークルがある。

  また、原始神道においては神(祖霊)の憑代として自然現象の奇跡としか言えない、丹波の櫛岩窓神社や石像寺の磐座があり、またやや人間の手が加えられているが、奈良の三輪山山頂遺跡、京都の鞍馬神社、神戸の保倉神社などでは巨石による磐境がある。

  一方、巨木信仰の文化はアメリカインディアンのトーテムポールに代表されるように世界的に広がっている。日本においては信州の諏訪大社における御柱などは、現代に生きている巨木信仰である。

  さて、目を縄文時代に向けてみると、かの三内丸山遺跡、富山県の真脇巨木遺跡、桜町遺跡さらには福島の宮畑遺跡などから直径2m級の柱の穴が発掘されている。既にこの頃は植物の栽培や土器はもちろん漆工芸品の製作もしていた。よってこのくらい高度の社会生活をしていたのだから死者に対する畏敬の念や大自然の猛威に対する慰撫の儀式も整っていたと考えられる。さらに最近認知されるようになったことであるが、約1万年前より日本人は定住し、社会生活を営んでいたことが鹿児島県の上野原遺跡などから明らかになった。

  次に日本庭園についてであるが日本の文化といえば仏教、仏像、禅、花、侘び、寂などであるが、日本庭園はこれらすべてと関係する。即ちこれらの抽象概念を型にしたものが日本庭園と言えないだろうか。そのつもりで上古、平安、鎌倉、室町、安土桃山および現代の庭園をここに紹介したい。

B斎藤忠一先生との庭園研究会
  私と日本庭園の出会いは概ね次のようになる。
・重森三玲先生の「日本庭園史大系」を読んで京都の庭園を回った
・同好の会を募り阿波国分寺、願勝寺、毛越寺、西本願寺、仙洞御所などの庭園鑑賞
・斎藤先生に庭を見ながら説明を受けた。同好の会も友人、そのまた友人と次第に輪が広がっている。鑑賞会は毎年11月23日と固定している。この時期は京都の紅葉が最も美しい時期である。また前日には京都のおばんざいやに集まり、斎藤先生を囲んで一杯やるのが楽しみだ。今回のHPはその鑑賞会の講義録のようなものだ。尚、私の勝手な推測も多いのでご興味のある方は参考文献を紐解いていただきたい。
 第一回:西芳寺(苔寺)、松尾大社、天龍寺、臨川寺
 第二回:金閣寺、等持院、大仙院、瑞峯院、龍源院
 第三回:銀閣寺、曼殊院、知恩院、円徳院、高台寺
 第四回:退蔵院、龍安寺、東福寺、光明院
 第五回:平城京跡東院、平城京左京三条二坊宮跡、旧大乗院、飛鳥
 第六回:三宝院、金地院、南禅寺
 第七回:西芳寺(苔寺)、神泉苑、二条城、法金剛院、天龍寺  2003年の探訪風景
 第八回:金閣寺(鹿苑寺)、妙心寺・東海庵、本法寺
 第九回:重森邸、桂離宮、修学院離宮、下賀茂茶寮(茶会)
2、時代による庭園様式
@信仰の対象 神道の石組、神島を日本庭園の源流的に考察する
  日本上代は信仰の対象として磐座、磐境や神池、神島があった。その後帰化人により神仙蓬莱思想の伝来により観賞の対象として庭園が出来てくるのである。上代人は大自然の中に永遠不滅の巨石を神の宿る場所(磐座)として認識した。また、そこを神聖清浄な地域として保存するための境界石(磐境)を人工的に組んだ。一方、海洋民族としての日本人は神を奉斎するための神聖な場所として海中の島を定めた(神島)。その後、天皇の宝殿として水垣宮、軽の曲峡宮(曲線のある池)、磐余池(舟遊びの池)が出現し、ついに蘇我馬子が飛鳥に中島のある池庭を作ったため「島の大臣」と言われるようになり、完全に庭園が発生したことになる。
A神仙蓬莱思想(仙人・蓬莱・鶴亀)
  神仙蓬莱思想は飛鳥時代に入ってきたが、日本の文化に対して決定的な影響を与えた。その後極楽浄土の庭や禅の庭などが入ってきたが、その中に必ずと言っていいくらいに鶴や亀が入っている。例えば龍門の滝の横に鶴島亀島があったり蓬莱山があったりする。須弥山も蓬莱山も関係なくなってしまう。これが日本庭園を分かりにくくしている原因だと思う。しかし、なぜこれほど神仙思想が親しまれたのだろうか。それは不老不死にあるのではないだろうか。以下に中国の神仙思想を見る。少々長くなるが日本庭園の核となる根拠について分かりやすく書いてあるので、その要点を記述する。
斎藤忠一「図解 日本の庭」 東京堂出版より抜粋


▲渤海湾に浮かぶ蜃気楼
 
秦の始皇帝は徐福にそそのかされて神仙島を信じ琅邪台に三ヶ月も滞在した

仙人とは

  山中に住み、老いることもなく死ぬこともない。自分の姿を瞬時に見えなくすることも出来るし、真暗闇のなかでも、昼間のようにはっきりものを見ることが出来る。水の中に入っても溺れることなく、火に入っても焼けることもない。穀物を食べなくとも、一瞬にして千里を走ることが出来、鳥のように空を飛び、天に到ることもできる。…………と思いつく全ての条件を備えている。
  このようなスーパーマンには誰でもがなりたいものだ、それが修行しだいで誰でもなれるという。と、言うのは自然界を見てみれば人間以上に長生きしている動物や植物があるではないか。その動物などをよく観察すれば神秘の理法が明らかになる筈だ。例えば鶴や亀は首を長く強く伸ばし、手足もよく屈伸する。これは体内の障気を吐き出しているに違いない。このように動物の動きを取り入れた体操をすれば長生きが出来、一瞬にして妙薬も作り出すことができる、と考えた。

天地一切の存在は、全て宇宙の根源である霊妙なる「気」から出来ている

  人の身体も精神も「気」から出来ている。ただ身体は形が見えるように出来ていて、精神が形が見えないだけ。身体は形が滅びるようにインプットされている。すなわち老衰、疾病、霊障である。その原因は頭部、心臓、臍下には三尸虫(さんしちゅう)という虫が住んでいるからである。となると、この虫を追い出せばよい。そういえば鶴や亀が首の屈伸をするのはこの虫を追い出しているではないか。

穀断(こくだち)と仙薬

  三尸虫を駆除するためには虫の餌になる五穀(米、麦、粟、黍、豆)を断てばよい。しかし穀断をすれば虫も弱るが、我々人間も栄養失調になり、やがて生命の危険に陥る。それならば五穀に代わって生命の「気」を養い三尸虫の餌にならないものは何か、である。あった、それは服餌(ふくじ)といってキノコ、松の実などである。いわゆる漢方薬の類で仙薬と、いう。

名山と作薬

 五穀を断って仙薬を服し、気を養生すれば仙人になれる。しかし肝心の仙薬なるものは、どのようにし入手するのか。仙薬の材料を集めて作薬することこそ、仙人になるための究極の手段である。仙薬になる薬草や鉱物はきっと大山にある物が良いに違いない。なぜならば、大山には力強い霊力を持った正しい神がいるから作薬をその霊力で手伝ってくれるに違いない。作薬には絶対に洞窟が必要である。精進潔斎して精思し、山の神の力を借り作薬する。大山には深山幽谷があり、仙薬の材料が豊富で、洞窟もある。

材料が豊富で洞窟の多い場所

  作薬をする場所としては大山として五山(泰山、衡山、崋山、恒山、嵩山)が有名である。
海上の十大州{
瀛州(えいしゅう)、祖州、玄州、長州、など}が良いとされた
四島にも仙薬が多く仙人がいる(
方丈州、蓬莱州、滄州、扶桑州)
上記
瀛州、方丈州、蓬莱州は庭園では三神仙島として登場する

金丹と仙人
 
不老不死の寿命を持った仙人になるためには、最高の仙薬である金丹を服さなければならない。金丹は薬草から作るものではなく、丹砂から作る。水銀と硫黄が化合した硫化水銀である。これに砒素、明礬などを加え一ヶ月以上高温で精錬をする。うまく出来れば、これに更に別の材料を加え精錬すれば黄金になる、とのこと。完全に物理化学の世界だ。アラビアの錬金術と同じだ。

秦の始皇帝(前259〜前210)により神仙蓬莱思想が定着した
  前221年天下を統一して三年後、彼は首都の咸陽を出発し、泰山に登り封禅の儀を行った。この後山東海岸で遊んでいる時、方士の徐福が取り入り仙人探しを次のように誘った。
「東海の渤海の中には
蓬莱、方丈、瀛州(えいしゅう)という三神山があります。…………そこには、もろもろの仙人や仙薬が全部揃っており、住まっているものは、鳥獣までが白一色で、宮殿楼閣は金銀で出来ているとのことです。………是非とも私どもを三神山へ遣わして、仙人や仙薬を求めさせていただきたい。」
 
始皇帝は徐福たちの希望を聞き入れ金と人を与え、海上に遣わした。その後徐福のようなおもねりへつらう輩の言う事を数多く聞き入れた。しかし、現実にはあり得ないことなので方士たちはその都度出まかせを言った。始皇帝は10年間も山東半島にありえない幻の夢を追い続け、遂に50歳の時に仙薬探しの船旅で病を得てなくなった。

漢の武帝が鶴亀蓬莱庭園を発生させた(海中の神仙山を亀の形に作る)
 
漢の武帝(前156〜前87年)も神仙思想に没頭した。方士の李少君は武帝に次のように言った。
「竃の神を祭れば、神霊を招くことが出来、神霊を招致することが出来れば、その力を借りて、丹砂を化して黄金とすることが出来ます。その黄金で食器を作って食すれば、寿命を延ばすことが出来ます。寿命が伸びれば海中の蓬莱山中に住む僊人(せんじん)にも会うことが出来ます。僊人にあってから封禅の儀を行えば、もう死することはありません。…………」
  など夫々の方士はでたらめを言うが、武帝は、次から次と繰り出してくる方士達の虚言を実行する。そして晩年には
大液池と名づけた池の中に蓬莱、方丈、瀛州、壺梁の四島を築いた。池の中には漸台という水の中から立っている建物と、亀や魚の形をした石組みのようなものが配置された。いよいよ神仙蓬莱庭園の発生だ。この漢時代の思想は唐時代に日本の飛鳥に伝わった。島の大臣が登場する。
  なお、日本庭園で神仙島ではなく陸上部に神仙山がある場合は崑崙山か古来より名山として篤い信仰を受けている泰山を表している、とのこと。

亀が神仙山を背負うの伝説
 
戦国時代初期の「列氏」の中に次のような神仙島の記述がある
「渤海の東、どれほど遠い距離があるか分からないが、大きな谷がある。その他には底なしの谷で、帰虚と呼ばれている。…………その谷の中に、
岱輿(たいよ)、員僑(いんきょう)、瀛州(えいしゅう)、方壺(ほうこ)、蓬莱という五つの神仙山がある。…………五神仙山は、根元のほうでは連なっていないので、常に波の間に間に、上がったり下がったりして漂い巡って、少しの間もじっと停止していることがなかった。このように神仙山が定まらないのに困った仙人たちは、そのことを天帝に訴えた。すると天帝は神仙山が宇宙の果てに流れ去ってしまい、仙人たちの住むところがなくなってしまうのを心配して、北極を司る愚彊(ぐきょう)という神にその対策を命じた。愚彊は、大きな亀15匹に、頭をもたげて神仙山を背負い、漂い巡らないようにさせた。ところが、北の果ての国に童伯という大男がいて、数歩にして帰虚に至るというほどの巨人であった。この男がある時、帰虚の谷で釣りをして、6匹もの大亀を数珠つなぎに釣りあげて、それを担いで北の国へ持ち帰り、その甲羅を焼いて占いに使ってしまった。二島の大亀がいなくなったために、岱輿(たいよ)と員僑(いんきょう)の二島が北の果てへと流れていって、大海原に沈んでしまう。」
 
以上によって、亀が蓬莱山などを背負う、という神話が成立していたことが分かる。この神話が武帝の時代に庭園の中に再現されたのである。
 
では何故このような神話が発生したかの背景を探ると、渤海湾には蜃気楼が発生するからだ。じっさい蜃気楼は方士たちが言い逃れで言っているように、神仙山は遠くから見るとユラユラ漂っていて、そばに行くと消えてしまう、というのも無理もないことだ。
B貴族世界の時代思想
極楽浄土と
末法思想   
a、時代背景
 インド、中国で末法思想が生まれたが、わが国では
古代国家の崩壊過程進行に伴い社会・政治情勢の不が広まった。10紀末から11世紀にかけ、摂関政治の行き詰まりと天災や疫病に脅やかされていた貴族たちは、密教や陰陽道などの呪術にすがって現世利益を求めるだけでは足りず、浄土信仰によっても日々の不安から解放されようと願った。こうした時代の風潮と相まって末法思想が広まっていった。

b、正法・像法・末法の期間についての諸説
時代 A説 B説 C説 D説
正法 教・行・証の三法が行われる 500年 500年 1000年 1000年
像法 教・行はあるが証果が得られない 500年 1000年 500年 1000年
末法 教えのみがあり行・証もなく末法になる 1万年 1万年 1万年 1万年

c、日本での末法は
 実際の釈迦の生涯について、一般的には紀元前565年〜486年または紀元前465年〜386年である。しかし日本では平安時代中期より、釈迦の入滅時を前949年として、正法・像法各1,000年(D説)とし、その結果末法は1052年(永承7)に迎える、との説が広く流布された。その結果、この時期前後から末法から逃れるために浄土信仰が盛んになる。なおキリスト教にも終末思想がある。

d、浄土信仰
 末法意識に思想的根拠を与えたのが、源信の『往生要集』であった。院政期から鎌倉期にかけての武士・僧兵らの横暴,相つづく天災・戦乱・飢饉により、時代が経典に説かれる末法の様相と一致したことは、人々に末法の到来を現実のものと意識させた。末法到来の危機感は、末法意識を基底にした仏教の展開を促すことにもなり、法然は称名念仏をすすめ、その弟子親鸞は絶対他力を強調した。日蓮は末法に得脱するのには『法華経』の題目を唱えること以外にないと説いた。これに対して道元は仏教に正・像・末を立てることを一つの方便にすぎないと、末法仏教を批判した。
e、極楽へ行くための手っ取り早い方法は、この世に極楽を再現する
 
極楽へ行くためには「観無量寿経」では定善十三の観法がある。極楽世界の細部から思い浮かべ、目の前にありありと見えるまで修行せよ。そうすれば最終的には極楽の蓮華の中にいる自分が見えてくる。そのためには寝ても覚めても極楽が見えるように訓練する必要がある。想像力で現実を作ってしまうのだ。
 しかしこれでは非常に手間が掛かる、何か安直な方法がないのか。あるある、地上に極楽を作ってそれを見続ければ、極楽世界が目の当たりに浮かんでくる、という。道長は62歳で糖尿病で死んだそうだが、美食の果てに目が見えず、好きなものも食べれず最後を迎えた。

「作庭記」について
 極楽浄土の庭は平安時代の時代思想を強く受けている。この時代を理解するためには作庭記という本を理解する必要がある。例えば平等院、法金剛院、毛越寺、浄瑠璃寺、円成寺などは最近発掘された事実と当本の記載内容が全く一致する。また西芳寺は当初極楽浄土の庭として作られたため、この庭を理解するためにも作庭記を一読しておきたい。

  平安時代の庭園はには寝殿造りの建物はセットになって作られた。作庭記はこの庭の作り方について纏めたものである。作者は橘俊綱という説が有力のようである。彼は藤原道長の孫、頼道の子に当たり、王朝文化のど真ん中で育った。よって彼の書いた書物は単なる庭園作りのノウハウではなくて、王朝文化について語っていることになる。
以下その一部を森蘊(おさむ)氏の「作庭記」の世界  NHKブックスよりの約を記載する

石を立てるに際して先ずおおよその趣意を心得ておく必要がある
一、地形により池の形に従って、よって生ずる所々に趣向をめぐらして、自然風景を思い出して、あそこはこうであった、ここはどうであったなどと、思い合わせて立てるべきである。
一、昔の名人が造って置いた有様を模範として、家主の意見を心に置いてそれに自分の風情をめぐらして立つべきである。
一、国々の名所を思いめぐらして、その面白い所々を自分の考えに取り込んで、大体の姿をその所々になぞらえ、素直に立てるべきである。
私のコメント:自然の風景の沿って、先人の意見を参考に、自然のポイントを吸収して作庭せよ、と三原則を述ベている。実によく出来ている。率直である。王朝文化のど真ん中の人が書けるのだろうか、と気になる。

石を立てる様式は色々ある。大海の様、山河の様、沼池の様、葦手の様などである。
一、大海の様は、先ず荒磯の様を立てるべきである。荒磯は岸のほとりにには不恰好に尖ったいくつかの石を立て、水際を基礎として立ち上がった石を、数多く沖のほうに立て続けて、その他にはなれ出た石も少々あるが良い。これはみな波のきびしくかかるかかる所で、石が洗い出された姿である。さて所々にずっと洲崎や白浜を見せて、松などを植えるべきである。

島姿の様々を言う事。山島、野島、杜島、磯島、雲形、霞形、州浜形、片流、干潟、松皮などである。
一、磯島は直立した石を所々に立て、その石の望むにまかせて、浪打の石を荒々しく立て連ねて、その高石の間には、あまり高くない松で、年数を経、姿が優れており、緑深いものを所々に植えるべきである。
一、雲形は、雲が風にたなびき渡った姿で、石もなく植木もなくて、一面に白洲であるべきである。
一、霞形は、池の面を見渡すと、朝みどりの空に、霞の立ち渡った様に、二かさね三かさねにも入れ違えて、細々とここかしこがとぎれ渡って見えねばならない。これも、石もなく植木もない白洲であるべきである。
一、すはま形は、普通の州浜の様にするのである。但しあまりきちんと紺の紋などの様になるのはよろしくない。同じ洲浜形であるけれども、或いはひきのばしたように、或はゆがめたように、或いは背中合わせにうちちがえた様に、或いは洲浜の形かと見えるけれども、やはりそうではない様に見えなければならない。これに砂を散らした上に、小松などを少々植えるが良い。
一、干潟様は、塩の干あがった跡の様に、半ばあらわれ、半ば水に浸ったようにして、自然に石が少々見えるのである。樹はあってはならない。

滝を立てることに就いては口伝がある。中国の書物にも記されていることが多いとか言うことである。
不動明王が誓って言われるには、滝は三尺になれば皆我が身である。四尺〜五尺ないし一丈〜二丈になれば勿論のことであると。このようなわけで必ず三尊の姿であらわれる左右の前石は二童子をあらわすのであろうか。
備考)法金剛院の滝を作り直したのは大きいほど不動明王の功徳が大きくなるから

立石の口伝
石を立てるには、逃げる石があれば、追う石があり、傾く石があれば、支える石があり、踏まえる石があれば、受ける石があり、仰ぐ石があれば、うつむく石があり、立つ石があれば、伏せる石があるといっている。


須弥山と九山八海
 極楽浄土の思想の庭には須弥山や九山八海を象徴した石組みがある。
詳しくは須弥山と九山八海を参照
C禅思想の反映 (斎藤先生の説明と本より)
臨済宗の禅の悟りとは
  自分が清浄身であることを自覚する、ことである。そのためには方便として周りを塵一つない環境にする、ことである。これを称して禅観境を無染にする、と言う。そのためには一に掃除二に掃除である。
 
この精神から発している禅寺の庭園は塵一つなく、水が打ってあり、凛として厳粛である。しかし、心安らぐのである。
蘭渓道隆が始めて龍門瀑を作る
 
  龍門の滝を最初にもたらしたのは蘭渓道隆(1213〜78年)である。彼は1246年に34歳のとき宋から博多に到着。途中大分県の九重町で滝に出会い「龍門の滝」と命名した。その後上洛し執権北条時頼に招かれ鎌倉に着いたのが1247年であった。翌年より建長寺の創建に参画し、開山第一祖として入寺した。蘭渓40歳であった。その後時頼の崇敬ますます篤く、後嵯峨天皇の勅を受けて上洛し御前で禅の要諦を説いた。しかし彼の盛名を嫉妬してか、他宗派からの誹謗や圧力が激しくなり、ついには元寇のスパイ説まで飛び出した。彼は鎌倉を出て甲斐、信濃に二回にわたって都合11年間逃避行した。この間彼が東光寺を初めとして龍門瀑の庭園を作った。この時点から日本の庭園が従来の神仙蓬莱式庭園や極楽浄土式の庭園から禅の思想に基づいた庭園になった。
夢窓国師の略歴
  夢窓国師は蘭渓道隆より一世代後の1274年に生まれた。彼は中国に渡って悟りを得たわけでもなく、中国から来た高僧から印可を受けたわけではない。彼は蘭渓道隆を慕って建仁寺や建長寺などの僧堂で参禅修行もしたが、しかし彼はそれ以上に僧堂を出て、旅を続け自然の山野に独坐して修行を続け悟りを開いた。夢想国師の悟りが大自然の中で行われたことは、彼の庭園が自然をテーマとしながら精神性を秘めていることと深く関係している、と思われる。
龍門瀑とは
  天龍寺や金閣寺などにある。ともに中国の故事にある「登龍門」の由来である鯉が、三段の滝を登って将に龍に化す様を現している。中国南宋よりの帰化僧の蘭渓道隆禅師が中国の故事にある登竜門(鯉が死を賭してまで竜になるべく努力するさま)にならって、修行僧が観音の知恵を得る(悟る)まで、努力をしなければならないことを日本庭園の形で教えている。このテーマを夢想国師が引き継いで新しい庭園のスタイルを確立した。このようなわけで鎌倉、室町時代は庭園のメインテーマは滝だ。      
碧巌石:
禅門書の一つに「碧巌録」という書物があるが一人の禅僧の書物ではなく、雪ちょう重顕(980〜1052)禅師が「景徳伝灯録」などに収録されている約1700人の語録の中から100種類を選び出した。その後、円悟克勤{(えんごこくごん)1063〜1135年}が出て、これに「乗示」というまえおきと、「著語」という短評、更に「評唱」という説明と批判を添えて纏め、これを「碧巌録」と名づけた。ではなぜ碧巌としたかであるが、円悟が執筆をした霊泉院の書斎の額に碧巌と書かれていたからである。またなぜ額に碧巌と書かれてあったかは次の通りである。
 
霊泉院は夾山善会(かつさんぜんね)禅師が開山した。ある日、一人の僧が訪ねて彼に質問した。「いかなるか、これ山の境」と問答をけしかけた(つまりお前さんの境地は如何ほどか)。これに対して、彼は答えた。
 猿は子を抱いて青嶂の後ろに帰り
 鳥は花をふくんで碧巌の前に落つ
  と答えた

 どんな所とかこんな所とかとかありません。人跡絶えた絶壁だって、夕方になれば木々に
 戯れた猿たちも小猿を抱いて、岩陰のねぐらに帰っていくし、鳥だって、花に戯れては、
 碧巌の前を自由自在に飛び回っている。 と答えた。
 即ち、猿も鳥も私もそのまんまで宇宙一杯に自由にしています、との意であろうか。
 この句に因んで「碧巌」と額にしたためた。

 
現物の碧巌はごつごつした屏風岩なので、庭園でやや大きなごつごつした石は碧巌を意味することになる。即ち碧巌石は禅と、解釈される。


夾山にある碧巌(写真は珠洲市の吉祥寺住職山田泰雲氏から提供いただいた)
 
写真右側には竜の頭と思われる岩がある。碧巌の前に龍がいる構図はこれに由来するか

夾山の門                            ▲霊泉禅寺の門
(上記写真は珠洲市の吉祥寺住職山田泰雲氏から提供いただいた)


猿石:
碧巌石の付近に小猿を抱くイメージの石があったら猿石を意味している
観音石 :
白くて肩が丸い石は白衣観音を表していて、修行の悟りの世界を象徴している。
洞窟:
庭園に洞窟があることがあるが、それは深山にある洞窟を意味する。そこでは不老長寿の薬を作薬する







玉澗式石橋
    

 天台山一帯は、山・滝・渓谷が織りなす景色が美しく、天台山風景名勝区に指定されている。その麓にいくつかの寺が散在している。その中心をなすのが、県城から3km北にある国清寺。中国天台宗発祥の地として有名で、隋代に智(ちぎ)大師の遺志にもとづいて創建された。唐代に最澄は804年ここで天台宗を学び、日本に帰って、日本天台宗を興したことでもよく知られ、日本天台宗の発祥の地にもなっている。最澄は、帰国の際にお茶の木を持ち帰り、それが日本にお茶が広まるきっかけになったとも言われている。また円仁・円珍・道元・栄西ほか多数の僧が入唐・入宋の際に一度はここを訪れた。国清寺から17km奥に入ったところにある石梁瀑布(方広寺という寺がある)。
 この石梁瀑布こそが玉澗流水墨画の基になった実在の橋と滝である。この滝の上にかかる
石橋は細くて長く、非常に不安定な感じがする。しかしここで修行している僧たちは普段どおりに渡っている。


▲石梁飛瀑(写真は珠洲市の吉祥寺住職山田泰雲氏から提供いただいた)

日本禅文化の発生参照
D武将の庭
  武将の庭として取り上げたが、特に戦国時代から安土桃山時代のポイントを絞って記述する。
戦国武将はわが命を守るのは己の力だけである。それゆえこの時代の武将の作品は庭園に限らず、力強く豪快である。安土桃山時代になると天下を取った秀吉の時代になると絢爛豪華なものになる。
戦国時代 
  庭園で見てみると戦国武将の庭の代表は福井市の朝倉氏遺跡にある各庭園がその代表ではないだろうか。庭園は朝倉氏が秀吉に滅ぼされてからは一乗谷にそのまま放置されたために、この庭園はそのまま化石状態で残ることになった。次に戦国時代の武将の庭園としては旧阿波国分寺庭園が上げられる。このものすごい勢いの庭園は一体何であろうか。これだけの資材を惜しげもなく使って自由奔放、豪快無比、疾風怒涛、どのような形容詞でも言い表せない。どれだけの経済的基盤と、文化的基盤があったのだろうか。このあたりが解明されないと本当の評価が出来ないのではないだろうか。徳島城の千秋閣庭園に似ているけれど、もっと緻密で隙がない。
安土桃山時代
  円徳院の庭は伏見城から移石して作られたようであるが、狭い空間に鋭い角度をした石が所狭しと並んでいる。中でも鶴島と亀島を繋いだ石橋は厚く粗野に見える石である。この石橋は天下人になった秀吉が、仙人が住むといわれていた蓬莱山へ、直接に踏み込み渡ることを意味している。戦国を生き抜いてきた信長や、秀吉の時代になると神や仏よりも実力が全てであった。それゆえか滝はあるが鯉魚石はもはやない。登竜門の故事は不必要なのだ。同様に三宝院、二条城においても鶴島、亀島に直接行けるように橋を架けるようになった。
戦国武将と茶室(曼朱院の茶室にて斉藤先生の話)
  数寄本来の茶室とは「転戦する戦場で盟約を結ぶため、俄か作りの仮小屋で茶を飲み回し、密約を結ぶ場所」である。例えば、葦が格子となった窓は、明かり取りのために塗り残した壁の部分の芯の葦がむき出しになったためであり、壁に紙が張ってあるのは、塗りたての壁土が武将の衣服に付かないようにするためである。木材の種類が異なり、曲がりくねっていいるのは、そこいらの木々を使ったためである。何とシンプルで清々しいことか。
E御所・大名の庭   
  当庭園は武将の庭のようなゴリゴリした景観がなく、大名庭園や、今日の公園のようである。私は御所なので王朝絵巻にある寝殿造り風かな、と考えていた。その原因は私の素人考えであるが次のようなことであろうか。@宮家の庭園なので禅寺や武将の庭のような緊迫感が必要なく、ゆったりして和やかである。A王朝文化の伝統を保持した芸術家がいない。B財政的ゆとりがない。C江戸時代の気風が創作性を失わせている。
F芸術に昇華した日本庭園
  重森三玲氏は作庭のバイブルと言われる「作庭記」をもじって「新作庭記」を記しているが、その中で概ね次のようなことを述べられている。
 人はなぜ庭園を必要としたかの原点から考察した。即ち古代人においては自然は絶対的なもので言わば神であった。ところが仏教の伝来により、人間は仏教の神により従来の自然の神から解放されることになった。日本庭園が大自然の再現だとすると人間は従来の自然神を否定することにより、新たに人間の神を創造することになる。もちろん自然の再現と言っても、大自然をそのまま縮小コピー出来るわけもなく、しても意味がない。そこで意味のある形を再現するためにはどのようにしたらよいのか。そのためには自然の中の急所を作者の心を通じて抽出することである。言わば意訳することが必要なのである。
 従って現代においては現代語でもって自然を意訳することで、価値ある庭園が誕生することになる。
3、参考文献
@図解 日本の庭   斎藤忠一          東京堂出版 各庭園の時代背景を分かりやすく説明
A日本庭園鑑賞事典 斎藤忠一・大橋治三  東京堂出版 全国の名園105庭を説明
B「日本庭園」の見方 斎藤忠一・田中昭三   小学館  サライに記載されたものを追加取材編集
C探訪日本の庭    重森完途・斎藤忠一・  小学館全10巻
D日本庭園史大系   重森三玲・完途 ・大橋 社会思想社 全35巻 庭園史のバイブル
E枯山水         重森三玲         河原書店 枯山水の用語、発生の背景についての研究
F刻々是好刻      重森三玲         北越出版 重森氏の日本文化に関する珠玉のエッセイ
G重森三玲作品集   神々へのアプローチ   聖文堂新光社 重森三玲先生の作品集
H松尾大社造園史   河田晴夫         松尾大社
I旅に出たら寄って
    みたい庭30   野村勘治          小学館 時代ごとの庭園のテーマの背景を探る
J日本庭園・鑑賞ガイド野村勘治・大橋冶三   婦人画報 滝、石組みなど作庭要素ごとに庭を紹介
K森蘊          「作庭記」の世界      NHKブックス
L金子裕之       古代庭園の思想      角川選書  神仙世界について中国古代より説明
M田中正大       禅寺の石庭・原色日本の美術 小学館 
N吉川 需        枯山水の庭・禅院と庭園 日本美術全集 学研
O飛田範夫       洛中洛外図屏風のなかの枯山水  禅宗寺院と庭園 講談社
P今泉淑夫       室町文化としての禅宗  禅宗寺院と庭園 講談社
Q京都林泉協会    日本庭園鑑賞便覧    学芸出版社 庭園、仏像、建築などの解説
R兵庫県の日本庭園  西 桂           神戸新聞総合出版社  県内の庭を丹念に紹介
S庭園倶楽部      稲次敏朗・ワタリウム美術館 学芸出版  日本の形について総合的な考察

21禅と日本庭園     川瀬一馬         講談社 夢窓国師の行脚についての学術的な本
22夢窓国師の風光   中村文峰         春秋社 僧侶の立場から国師の心の遍歴を記す
23夢窓国師        玉村竹二         平楽寺書院  1958年の古典
24日本庭園を極めた禅僧  枡野俊明      僧侶にして作庭家の立場から夢窓を論じている
25夢窓国師年譜    春屋妙葩          続群書類従第九 国師の遍歴に関する文献の原点
26都林泉名勝図会   秋里籬島 白幡監修   講談社学術出版 江戸時代の本であるが変化が分る
27日本庭園を愉しむ  田中昭三         実業之日本社  庭園文化の背景を広く語っている
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